に猶一|事《じ》の記念すべきものがあつた。それは吉野山の桜を園内に移し植ゑたことである。蘭軒の識る人に斎藤某と云ふものがあつた。桜は本此斎藤氏の園中の木であつた。蘭軒はそれを乞ひ得て移し植ゑたのである。事は次年に作つた長古「芳桜歌」と其小引とに載せてある。惜むらくは其移植の月日が記してない。
初め小さい桜の木の苗を吉野山から齎し帰つて、これを江戸の邸宅の園内に植ゑたのは、斎藤氏の家の旧主人である。丙戌より五十年前だと云へば、安永中の事でなくてはならない。「斎藤氏園。有一桜樹。云旧主人得寸株於芳野而所栽。五十年於茲。殆已合抱。去秋余懇切乞之。遂移園中。」是が引の云ふ所である。
五十年の星霜を閲した「合抱」の木であつたから、これを移すのは容易な事ではなかつただらう。蘭軒の懇望のいかに切なりしかは、歌に「蜀望荊州方可想、秦求趙璧亦斯情」と云ふを以て知られる。蘭軒は初め言ふことを憚つたが、遂に意を決して乞うた。「言偏思巧未開口。策已将運猶畜胸。忽把破瓶迸水勢。断然切乞意方剛。」斎藤某は蘭軒の脚疾あるを憐んでこれを許した。「主人清淡且仁慈。莞笑頷之不敢辞。徐説愛花吾似子。但吾健歩子其痿。満城
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