過ぎて、癸未の八月十七日に霞亭は四十四歳で歿した。墓誌に「患東邸士習駁雑、授小学書、欲徐導之、未遂而没」と云つてある。その未だ遂げずと云ふのは、訓導の目的を遂げなかつたと云ふ意である。小学の書は早く成つて人に頒たれた。花亭の書牘に、「この北条小学纂註を蔵板に新雕《しんてう》いたし候、所望の人も候はば、何部なりとも可被仰下候、よき本に而《て》御座候」と云つてある。
その百二十三
わたくしは此年文政四年五月二十六日の菅茶山の書牘の断片を写し出して、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の游蹤を、五月二十二日に神辺を発して三原に向ふまで追尋した。そして其断片が北条霞亭に与へた書であつたがために、霞亭が※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の江戸を出でたと殆ど同時に江戸に入つたと云ふことに語り及んだ。
茶山は此書牘中に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎父子の事を叙して、さて末に「ふたりとも連を羨しく候、此段伊沢へ御はなし可被下候」と書いた。羨しくの下《しも》には存を添へて読むべきである。茶山は毎《つね》に己《おのれ》に子の無いことを歎いてゐた。それゆ
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