なかつたものとすると、その家に入るまでに余り多くの日数が掛かつてゐる。「徙居入秋初。」江戸に来てから家に入るまでの間に、少くも五月六月の二箇月が介《はさ》まつてゐたのである。
 霞亭の新居には今一つの疑問がある。それは嚢里《なうり》とは何処かと云ふことである。丸山の阿部家の地所だと云ふことは明であるが、修辞して嚢里と云つた、原《もと》の詞《ことば》は何であらうか。袋地《ふくろち》即|行止《ゆきとまり》の地所であらうか。それが今の西片町十番地のどの辺であらうか。兎に角寂しい所ではあつたらしい。「門巷頗幽僻。不異在郊墟。」
 前に引いた岡本花亭の書牘に、霞亭が聘に応じた時の歌と云ふものが二首載せてある。其一。「山かげの落葉がくれのいささ水世にながれてはすみやかねなむ。」其二。「かげうすき秋のみか月出るよりはや山のはに入むとぞおもふ。」書牘には後の歌を見て、田内|主税《ちから》の詠んだ歌が併せ記してある。「月の入る山のはもなきむさしのに千世もとどめむ清きひかりを。」田内の歌は霞亭が嚢里に住んでから後の作であらう。
 霞亭の嚢里に住んだ歳月は短かつた。徙《うつ》り来つた年の翌年壬午が僅に事なく
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