退いて永田馬場へ来たのであらう。「堀子」とは年寄堀江典膳であらうか。
これより後山陽は何処にゐたか。山陽は自ら「遊江戸、住尾藤博士塾」と書してゐる。二洲の官舎は初め聖堂の構内《かまへうち》にあつて、後に壱岐坂に邸を賜はつたと云ふ。山陽の寓したのは此官舎であらう。二洲は山陽の父春水の友で、妻猪川氏を喪つた時、春水が妻飯岡氏静の妹|直《なほ》をして続絃《ぞくげん》せしめた。即ち二洲は山陽の従母夫《じゆうぼふ》である。
山陽は二洲の家にゐた間に、誰の家を訪問したか。世に伝ふる所を以てすれば、山陽は柴野栗山を駿河台に訪うた。又古賀精里を小川町|雉子橋《きじばし》の畔《ほとり》に訪うた。これは諸書の皆|載《の》する所である。
さて山陽は翌年寛政十年四月中に、杏坪と共に江戸を立つて、五月十三日に広島御多門にある杏坪の屋敷に著き、それより杉木小路の父の家に還つたと云ふ。世の伝ふる所を以てすれば、江戸に於ける山陽の動静は此《かく》の如きに過ぎない。
然るに伊沢氏の口碑には一の異聞が伝へられてゐる。山陽は江戸にある間に伊沢氏に寓し、又狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の家にも寓した
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