島利一郎さんの手を煩はして纔《わづか》に明にすることを得たものである。
 幸子、初め亀子と云つた。越後国高田の城主榊原式部大輔政永の女《ぢよ》、黒田筑前守|治之《はるゆき》の室である。治之は是より先天明六年十一月二十一日に福岡で卒し、崇福寺に葬られた。
 伊沢分家の伝ふる所に拠れば、幾勢は八歳にして夫人に仕へたさうである。然らば安永七年幸子二十一歳の時である。次で十八歳にして一たび暇《いとま》を乞ひ、旗本坪田|三代三郎《みよさぶらう》と云ふものに嫁して子をも生んださうである。然らばその暇を乞うたのは天明八年で、幸子の夫治之が卒した後二年である。既にして幾勢は再び黒田家の奥に入り、前《さき》の主に仕へ、祐筆を勤め、又京都|産《うまれ》の女中二人と偕《とも》に、常に夫人の詠歌の相手に召されたさうである。然らば幾勢の再勤は早くても寛政二年幸子三十三歳の頃である。幾勢は当時二十歳になつてゐた筈である。伊沢良子刀自は幾勢が晩年の手紙一通を蔵してゐる。「正宗院」と署し、宛名を「伊沢磐安殿御うもじ殿」としてある。年次は不明であるが、歳暮の祝儀が言つてある。「うもじ」は内歟《うちか》。即柏軒の妻狩谷氏
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