人録に一の馬屋原|周迪《しうてき》があることを発見した。伯孝と周迪とは均《ひと》しく馬屋原を氏として、均しく蘭軒に接触した人である。しかも伯孝は福山に帰つた人で、周迪の名の下《しも》にも福山と註してある。わたくしはその或は同一の人物なるべきを推した。
 しかしわたくしは既に羮《あつもの》に懲りてゐる。曩《さき》にわたくしは太田孟昌の名を蘭軒の集中に見、又伊沢氏の口碑に太田|方《はう》の狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の門人なることを錯《あやま》り伝へてゐるのを聞いて、二者の或は同一人物なるべきを思つた。然るに方、字《あざな》は叔亀《しゆくき》は父で、周、字は孟昌は子であつた。それゆゑわたくしは過を弐《ふたゝ》びせざらむがために、浜野知三郎さんを労するに至つた。浜野氏のわたくしに教ふる所は下の如くであつた。
 菅茶山等の編した福山志料第十二巻神農廟の条にかう云ふ記事がある。「福山の町医馬屋原|玄益《げんえき》なるもの、享保廿一年神農の像を彫刻し、封内の医師五十人と相はかり再建し侍り。」これが医師馬屋原氏の書籍に記載せられた始である。
 阿部家の医官馬屋原氏は世《よゝ》玄益
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