去数度に及んだ例がある。文化六年に江が初て来た時は、逸雲は猶|穉《をさな》かつた。それゆゑ十四年に江が再び至るを俟《ま》つて始て従遊したかも知れない。只わたくしは江の幾たび来去したかを詳《つまびらか》にしない。或は津田繁二さんの許《もと》にはこれを徴するに足る文書があらうか。
 わたくしは此《かく》の如く記し畢つた時、市河氏の書を得た。梅泉の市河米庵に与ふる書、並に大田南畝の長崎にあつて人に与へた書に拠れば、稼圃が初度の来航は文化元年甲子の冬であつたさうである。梅泉が其時従学したとすると、年正に十九であつた。

     その百一

 劉梅泉が文政二年の八月に歿してから七年経て、九年の冬田能村竹田は長崎に往つた。そして梅泉の母に逢つた。「有母仍在。為予説平生。且道。毎口予名弗措。説未畢。老涙双下。」
 按ずるに母は游竜市兵衛の妻ではなくて、彭城《さかき》仁兵衛の妻であらう。養母ではなくて実母であらう。そして若し更に墓石に就いて検したなら、実母の名、其歿年、その竹田と語つた時の齢《よはひ》をも知ることが出来るであらう。
 竹田と梅泉とは恐くは未見の友であつただらう。竹田は「屡蒙寄贈、且促
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