てゐる。蘭軒は前年初見の時の同行者として、梧堂を除く外、成田成章、大田農人、皆川叔茂を挙げてゐて、岡本、田内、土屋は与《あづか》らなかつた。或は再三往訪した時のつれか。茶山は岡本以下の知人が蘭軒と偕《とも》に金輪寺《こんりんじ》を訪うたのに、それを報ぜなかつたことを慊《あきたら》ずおもつた。「皆私知音之人、金輪へ参候時何之沙汰もなく残念に候。」
 岡本忠次郎、名は成、字《あざな》は子省である。本近江から出た家で、父|政苗《まさたね》が幕府の勘定方を勤むるに至つた後の子である。忠次郎は南宮大湫《なんぐうたいしう》に学んだ。韓使のために客館が対馬に造られた時、忠次郎は董工のために往つてゐて、文化八年に江戸に還つた。茶山の手紙に書かれた時は職を罷める前年で、五十歳になつてゐた。
 安中《あんなか》侯節山板倉勝明撰の墓碑銘に、忠次郎の道号として、豊洲、花亭、醒翁、詩癡、又|括嚢《くわつなう》道人が挙げてある。此中で豊洲、花亭、醒翁の号が茶山の集に見えてゐる。既に老後醒翁と号したとすれば、茶山のために竜華寺《りうげじ》の勝を説いた岡本醒廬も或は同人ではなからうか。

     その九十八

 菅
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