浅野家に呈した覚書には「稽古場教授相譲申度趣」と云つてあるが、後住の語は当時|數《しば/\》茶山の口にし筆にした所であつて、山陽自己も慥にこれを聞いてゐた。それは山陽が築山捧盈《つきやまほうえい》に与へた書に、「学統相続と申て寺の後住の様のものと申事」と云つてあるのに徴して知られる。
 又「養子にてもなしに」の句も等間看過すべからざる句である。前に云つた春水の覚書にも「尤先方家続養子に相成、他姓名乗様の儀には無之」とことわつてある。
 要するに家塾を譲ると云ふことと、菅氏を名乗らせて阿部家に仕へさせると云ふこととの間には、初より劃然とした差別《しやべつ》がしであつた。後に至つて山陽の「上菅茶山先生書」に見えたやうな問題の起つたのは、福山側の望蜀の念に本づく。
 茶山が山陽を如何に観てゐたかと云ふことは、事新しく言ふことを須《もち》ゐない。此書は既に提供せられた許多《きよた》の証の上に、更に一の証を添へたに過ぎない。「文章は無※[#「隻+隻」、7巻−123−下−6]也」の一句は茶山が傾倒の情を言ひ尽してゐる。傾倒の情|愈《いよ/\》深くして、其|疵病《しびやう》に慊《あきたら》ぬ感も愈切
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