新町に家塾を開いた。思軒は茶山の手紙を以て此頃に書かれたものと判断してゐたのである。
茶山の此手紙を書いた目的をば、思軒が下《しも》の如くに解した。「其の言ふ所は、此たび杏坪《きやうへい》が江戸に上れる次《ついで》、君側の人に請うて山陽の事を執りなし、京都より帰りて再び之を茶山の塾に托せむと欲する計画ありとか伝聞し、山陽の旧過を列挙し、己れが山陽に倦みたる所以《ゆゑん》を陳じて以て澹父の杏坪の計画に反対せむことを望みたるなり」と云ふのである。計画とは山陽の父春水等の計画を謂ふ。春水等は山陽の叔父《しゆくふ》杏坪をして浅野家の執政に説かしめ、山陽の京都より広島に帰ることを許さしめむとしてゐる。さて広島に帰つた上は、山陽は再び廉塾に託せられるであらう。しかし茶山は既に山陽に倦んでゐて、澹父をして杏坪を阻《さまた》げしめむと欲するのだと云ふのである。
此伊沢澹父とは何人《なにひと》であるか。思軒はかう云つた。「澹父の何人なるやは未だ考へずと雖も、書中の言によりて推量するに、蓋《けだし》備後辺の人の江戸に住みて、藝藩邸《げいはんてい》には至密の関係ありし者なるべし」と云つた。
思軒の「頼
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