された。山陽が二十一歳から二十六歳に至る間の事である。疇昔《ちうせき》より山陽の伝を作るものは、皆此幽屏の前後に亘る情実を知るに困《くるし》んだ。森田思軒も亦明治二十六七年の交「頼山陽及其時代」を草した時、同一の難関に出逢つたのである。
然るにこれに先《さきだ》つこと数年、思軒の友高橋太華が若干通の古手紙を買つた。それは菅茶山《くわんちやざん》が伊沢澹父《いさはたんふ》と云ふものに与へたものであつて、其中の一通は山陽幽屏問題に解決を与ふるに足る程有力なものであつた。
思軒は此手紙に日附があつたか否かを言はない。しかし「手紙は山陽が方《まさ》に纔《わづか》に茶山の塾を去りて京都に帷《ゐ》を下《くだ》せる時書かれたる者」だと云つてあるに過ぎぬから、恐くは日附は無かつたのであらう。
山陽は文化六年十二月二十七日に広島を立つて、二十九日に備後国|安那郡《やすなごほり》神辺《かんなべ》の廉塾《れんじゆく》に著き、八年|閏《うるふ》二月八日に神辺を去つて、十五日に大坂西区両国町の篠崎小竹方に著き、数日の後小竹の紹介状を得て大坂を立ち、二十日頃に小石|元瑞《げんずゐ》を京都に訪ひ、元瑞の世話で
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