り」、第3水準1−87−68]は免職離門の上虎の門外に住み、寛斎も亦罷官の上浅草に住んだ。聖堂は安原三吾、八代巣河岸は平沢旭山が預つた。然るに未だ幾《いくばく》ならずして祭酒錦峰が歿し、美濃国岩村の城主松平能登守乗保の子熊蔵が養子にせられた。所謂《いはゆる》蕉隠公子《せういんこうし》で、これが林家九世述斎|乗衡《のりひら》となつた。安原平沢両学頭は罷められて、安原は向柳原の藤堂佐渡守|高矗《たかのぶ》が屋敷に移り、平沢はお玉が池に移つた。聖堂は平井澹所と印南とに預けられ、八代巣河岸は鈴木作右衛門に預けられた。後聖堂八代巣河岸、皆学頭を置くことを廃められて新に簡抜せられた尾藤二洲、古賀精里が聖堂にあつて事を視たと云ふのである。
安原三吾と鈴木作右衛門とは稍《やゝ》晦《くら》い人物である。市河三陽さんは寛斎漫稿の安原|希曾《きそう》、安原|省叔《せいしゆく》及|上《かみ》に見えた三吾を同一人とすると、名は希曾、字《あざな》は省叔、通称は三吾となる筈だと云つてゐる。又同書の鈴木|徳輔《とくほ》は或は即作右衛門ではなからうかと云つてゐる。鈴木が後に片瀬氏に更めたことは雲室随筆に註してある。
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