を昌忠とし、忠与を忠興とし、忠茂を忠武《ちゆうぶ》としてゐる。此中には道号と名乗《なのり》との混同もあり、文字の錯誤もあるであらう。初め宇津宮氏であつたのに、道意若くは道昌に至つて宇津と称した。
 忠茂に五子があつた。長忠俊、二忠次、三|忠員《たゞかず》、四忠久、以上四人の名は略《ほゞ》一定してゐるらしい。始て大久保と称したのは、忠茂若くは忠俊だと云ふ。世に謂ふ大久保彦左衛門|忠教《たゞのり》は忠俊の子だとも云ひ、忠員の子だとも云ふ。忠茂の第五子に至つては、或は忠平に作り、或は忠行に作る。伝説の菓子師は此忠行を祖としてゐるのである。
 忠行が主水と称し、菓子師となつた来歴は、姑《しばら》く君臣略伝の記載に従ふに、下に説く所の如くである。

     その八

 大久保忠行は参河の一向宗一揆の時、上和田を守つて功があつたと云ふ。恐らくは永禄六七年の交の事であらう。徳川家康はこれに三百石を給してゐた。家康は平生餅菓子を食はなかつた。それは人の或は毒を置かむことを懼《おそ》れたからである。偶《たま/\》忠行は餅菓子を製することを善くしたので、或日その製する所を家康に献じた。家康は喜び※[#「
前へ 次へ
全1133ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング