麻田氏は子がなかつた。
豊洲は浅草新光明寺に葬られた。伊沢総宗家の墓のある寺である。豊洲の墓は墓地の中央本堂に近い処にある。同門の友人|樺島石梁《かばしませきりやう》がこれに銘し、阿部侯|椶軒《そうけん》が其面に題した。碑陰に書したものは黒川敬之である。豊洲の墓は幸にして猶存じてゐるが、既に久しく無縁と看做されてゐる。久しく此寺に居る老僕の言ふ所によれば、従来豊洲の墓に香華《かうげ》を供したものはわたくし一人ださうである。
樺島石梁、名は公礼、字《あざな》は世儀《せいぎ》、通称は勇七である。豊洲が墓には「友人久留米府学明善堂教授樺島公礼銘」と署してゐる。
その五十七
此夏、文化六年の夏、蘭軒は石坂|白卿《はくけい》と石田士道との家に会して詩を賦した。士道は上《かみ》に見えた梧堂であるが、白卿は未だ考へない。梧堂の居る所は小西湖亭と名づけ、蘭軒の詩にも「門蹊欲転小天台、窓歛湖光三面開」と云つてあるから、不忍池の上《ほとり》であつただらう。若し蘭軒の新に移り来つた湖上の家が同じく不忍池の畔《ほとり》であつたなら、両家は相|距《さ》ること遠くなかつたかも知れない。蘭軒が詩
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