とき命じて作らしむといふ。好古の意見つべし。銘は板に書し屋上に掲たり。此より山中奥の院は十八丁ありといふ故|不行《ゆかず》して駅へ帰りければ撫院已に駅長の家に来れり。一里半関が原の駅にいたる。駅長の家に神祖陣営の図を蔵《をさ》む。駅長図を披《ひらい》て行行《ゆく/\》委細にとけり。駅中に土神八幡の祠あり。これは昔年よりありしを慶長の乱に西軍これを焼けり。後元和中越前侯|忠直《たゞなほ》(一|白《はく》)再脩せり。此所神祖|御榻《ぎよたふ》の迹なり。土人の説に此より北国道へ少し入りて松間なりといふ。旧図に不合《あはず》。当時石田の意は青野原にて決戦と謀しを、神祖不意に此処に出て三方の山に軍陣を列し、関が原へ西軍を包がごとく謀りし故西軍大に敗せりといふ。首塚二|堆《たい》あり。数里にして不破関の迹なり。今に土中より麻皺《ましう》の古瓦《こぐわ》いづるといへり。江濃《こうのう》両国境を経一里柏原駅。一里半|醒井《さめがゐ》駅。虎屋藤兵衛の家に宿す。暑尤甚し。行程九里|許《きよ》」
 空也上人の建てた石塔も、五重の石塔婆も、後に図を出だすと云つてあるが、其図は佚亡してしまつた。中川勘三郎|忠英
前へ 次へ
全1133ページ中109ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング