てある。わたくしは此新居を以てお玉が池二六横町の家となすのである。
その三百八
柏軒は己未の歳八月二十二日に幕府の奥詰医師となつた。わたくしはその中橋よりお玉が池に移居したのを、任官と略《ほゞ》同じ頃の事と以為《おも》ふ。それは小島成斎の九月二十二日の尺牘《せきどく》に拠つて言ふのである。
「倍《ます/\》御壮健奉敬賀候。然者《しかれば》無申訳御無音|戦栗《せんりつ》之至奉存候。御引移《おんひきうつり》並御召出の御祝儀参上可仕候処、公私|※[#「聰のつくり」、8巻−207−下−8]忙《そうばう》、甚以《はなはだもつて》御疎濶|罷過《まかりすぎ》、不本懐《ふほんくわい》奉存候。此節参上可仕候所、引越《ひきこし》公私のさわぎ又々延引、重々|恐悚《きようしよう》之至奉存候。御祝物進呈仕候。不日拝謁万々賀儀可申陳候。且又机永々恩借奉感謝候。是亦面上可申上候。乍憚令閨君えも御致声奉願候。草々頓首。九月廿二日。小島五一。伊沢磐安様侍史。」
わたくしは移居と任官とが略《ほゞ》時を同じうする如く謂《おも》ふと云つた。文中「御引移並御召出」と云ふより観れば、或は移居が任官に先《さきだ》つてゐたかとも推せられる。しかし己未の武鑑に「まき丁」と記してあるのは、猶中橋の槇町を斥《さ》して言ふものの如くである。姑《しばら》く疑を存して置く。
又「引越公私のさわぎ」と云ふより観れば、成斎も亦此書を作る直前に移徙《いし》したかと推せられる。渋江保さんは当時成斎に就いて筆札を学んでゐて、成斎が柏軒の子鉄三郎を待つに、其父の仕宦前後|厚薄《こうはく》を異にしたことを記憶してゐる。成斎は幕府医官の子を遇するに、疇昔に殊なる礼を以てしたのである。渋江氏は此事を語つて、成斎は「今の神田淡路町にあつた阿部侯上屋敷内自宅の二階三室を教場として」ゐたと云ふ。是は武鑑「阿部伊予守正教」の条に「上、昌平橋内、大手より十六町」と記する屋敷である。成斎は何処へ徙《うつ》つたのであらうか。或は同じ屋敷の内の移転などであらうか。是も亦猶考ふべきである。
成斎が柏軒の机を借りて久しく還さなかつたと云ふも、故ありげな事である。恐くは尋常の什具ではなからう。長子《ちやうこ》刀自の話に、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が京都加茂神社の供物台《そなへものだい》を得て蘭軒に贈り、伝へて榛軒、柏軒、磐、津山碧山、長門の人矢島|屯《じゆん》に至つたものがあると云ふ。恐くは是であらう。
柏軒はお玉が池の新居を営むに当つて、頗る其工費を辨ずるに苦んだ。塩田|真《しん》さんの語る所は下《しも》の如くである。
「柏軒先生の家計は常に裕でなかつた。先生自己が理財に疎かつたことは勿論であるが、夫人狩谷氏も亦決して細事に意を用ゐて周到なることを得る人ではなかつた。先生は貧ならざることを欲すと雖も、奈何《いかん》ともすることが出来なかつたのである。わたくし(塩田氏)の見た所を以てすれば、家政の按排は主に側室お春さんの手裏にあつて、此女は先生をして貧甚しきに至ることを免れしめたやうである。お玉が池の新宅は、わたくしの親戚の所有の空地《くうち》を借りて建築したものであつた。其費用は種々の工夫に由つて辨じたものである。わたくしは或日先生の使に海賊橋辺の商家に往つて、金六十五両を借りた。海賊橋は今謂ふ海運橋である。わたくしは金を懐にして四日市を過ぎた。偶《たま/\》絵草紙屋の店に新板の役者絵が懸けてあつた。わたくしは好劇癖《かうげきへき》があつたので、歩を駐《とゞ》めて視た。さて二三町行つて懐を探ると、金が無かつた。わたくしは遺失したかと疑つて、踵《くびす》を旋《めぐら》して捜し索めた。しかし金は遂に見えなかつた。前《さき》に絵草紙を看た時、掏摸《すり》に奪ひ去られたのである。わたくしは已むことを得ずして家に還り、救を父楊庵に求めた。父はわたくしのために金を償《つぐの》うてくれた。金は柏軒先生が番匠某に与ふる手附金であつた。」
その三百九
わたくしは安政丁巳に柏軒がお玉が池の新居を営んだことを記して、塩田|良三《りやうさん》の途に工費を失つた話に及んだ。
此家は今川越にある安部大蔵さんが目撃して記憶してゐる。安部氏の園田|宗義《むねよし》さんに寄せた書牘《しよどく》にかう云つてある。「伊沢磐安の宅は迂生《うせい》二十歳の頃に見し所を記憶す。神田お玉が池市橋邸の東横町にて、俗に二六横町と称へし処なり。門長屋《もんながや》ありて、小身の旗本の屋敷かと覚ゆる構へなり。医師の家としては当時の風俗より視て可なり立派なるものなりし。」
わたくしは渋江抽斎伝に柏軒がお玉が池に移つて、新宅開きの宴を張つたことを記した。彼保さんの姉|水木《みき》と柏軒の女《ぢよ》安《やす》とが長歌
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