の老松を歌ひ、幕医柴田常庵が衣を脱して「棚の達磨」を踊つた夕の事である。
 今按ずるに、此宴は柏軒が始てお玉が池に移つた年に張られたものではない。何故と云ふに、移転を丁巳の歳であつたとする限は、渋江氏の記憶にアナクロニスムを生ずるからである。渋江氏は宴を辞して帰る途上に力士小柳の横死《わうじ》を聞いた。小柳の横死は文久壬戌の四月であつた。即丁巳よりして五年の後、柏軒の京都に往つた前年である。推するに柏軒は壬戌に至つてお玉が池の家に座敷の建増などをしたであらう。さうして座敷開きの宴などを催したであらう。只其事が偶《たま/\》伊沢氏の文書に載せられてをらぬだけである。
 丸山の棠軒が家には、此年九月二十一日に嫡男|棠助《たうすけ》が生れた。棠軒公私略に「己未九月廿一日夕男子出生、名棠助」と云つてある。即今の徳《めぐむ》さんである。是は小島成斎が書をお玉が池の柏軒に寄せた前日の出来事である。
 九月二十八日に棠軒は福山藩の医学助教にせられた。公私略に前条の記事に接して、「同月廿八日医学助教被仰付」と云つてある。按ずるに丸山邸内の誠之館に於て医書を講じたのであらう。
 十月九日に棠軒は又阿部|正教《まさのり》の奥医師にせられた。公私略に「十月九日奥御医師被仰付」と云つてある。
 二十三日に棠軒は先侯正弘の遺子某を療することを命ぜられた。公私略に「同月(十月)廿三日清心院様御子様御用相心得候様被仰付」と云つてある。清心院は糸魚川藩主松平日向守直春の女《ぢよ》、福井藩主松平越前守|慶永《よしなが》の養女、正弘の後妻|謐子《しづこ》で、此夫人には男四人、女七人の子があつた。そして後に正桓《まさたけ》に配せられた第六女|寿子《ひさこ》を除く外、皆早世した。「御子様」は未だその誰であつたかを考へない。
 池田氏では此年四月|朔《さく》に分家京水の継嗣|天渓瑞長《てんけいずゐちやう》が歿した。法諡《はふし》養源軒天渓瑞長居士である。其後を襲《つ》いだものは恐くは三|矼《こう》二世瑞長であらう。武鑑は二年前丁巳に至るまで宗家の「御寄合医師、池田瑞仙」と共に、分家の「御目見医師、下谷三枚橋、池田瑞長」を載せてゐて、前年戊午以後には復《また》分家を載せない。戊午以後宗家の主瑞仙は三世|直温《ちよくをん》である。
 伊沢氏の相識中尚此年には百々桜顛《とゞあうてん》が死し、七世市川団十郎が死んだ。頼氏では三樹三郎醇《みきさぶらうじゆん》が前年攘夷を策して幕吏の逮《およ》ぶ所となり、此年江戸に斬せられた。「身臨湯※[#「金+護のつくり」、第3水準1−93−41]家無信。夢破鯨濤剣有声。」
 此年棠軒二十六、妻柏二十五、子棠助一つ、女長六つ、良四つ、全安の女梅十、柏軒五十、子鉄三郎十一、女洲十九、国十六、安八つ、琴五つ、妾春三十五、榛軒未亡人志保六十であつた。

     その三百十

 万延元年は蘭軒歿後第三十一年である。二月二十一日に柏軒が奥医師に陞《のぼ》つた。わたくしは偶《たま/\》此年庚申の正月に出た武鑑と三月に出た武鑑とを蔵してゐる。彼には猶「奥詰御医師、三十人扶持、中橋埋地、伊沢磐安」と載せ、此には既に「奥御医師(二百俵高、御役料二百俵)三十人扶持、お玉が池、伊沢磐安」と載せてある。前者は誤つて旧宅を記したものであらう。
 五月九日に棠軒は阿部|正教《まさのり》に扈随して福山に赴くことを命ぜられ、八月五日に江戸を発した。棠軒公私略に「五月九日御帰城御供在番被仰付、八月五日御発駕、尤中山道御旅行」と云つてある。
 九月に棠軒は福山より鳥取に往つた。伯母《はくぼ》を訪うたのである。公私略にかう云つてある。「九月廿九日、於福山鳥取表伯母君(田中喜三母)対面願之通被仰付、但日数往来之外七日之御暇。」
 森枳園は此年「本草経薬和名攷」を草した。其稿本は井上頼国の旧蔵であつて、今無窮会に保管せられてゐる。末《すゑ》に下《しも》の識語がある。「万延元年庚申小春二十八夜三更燈下収筆、養竹翁五十四歳。」是は浜野氏の曾て寓目する所である。
 池田氏では此年初代全安の妻が歿したかとおもはれる。わたくしは過去帳五月十日の条にある「遊蝶院得夢定見大姉、池田全安妻、俗名蝶」を以て初代全安の妻となすのである。
 菅氏では此年七月三日に菅三惟繩《くわんさんゐじよう》が没した。継嗣は今の晋賢《しんけん》さんで、実は門田樸斎の第四子である。
 此年棠軒二十七、妻柏二十六、子棠助二つ、女長七つ、良五つ、全安の女梅十一、柏軒五十一、子鉄三郎十二、女洲二十、国十七、安九つ、琴六つ、妾春三十六、榛軒未亡人志保六十一であつた。
 文久元年は蘭軒歿後第三十二年である。二月三日に柏軒が法眼に叙せられた。宣旨は現に良子刀自の許にある。「上卿日野中納言、万延二年二月三日宣旨、磐安、宜叙法橋、奉蔵人右
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