著した。事は棠軒公私略に見えてゐる。
小島氏で此年|春澳《しゆんいく》が家督相続をしたことは前に云つた如くである。
渋江氏で此年蘭門の高足であつた抽斎|全善《かねよし》が五十四歳で歿した。流行の暴瀉《ばうしや》に罹つて、八月二十九日に瞑したのである。柏軒は抽斎の病み臥してより牀《とこ》の傍《かたはら》を離れなかつた。後抽斎の未亡人五百は、当時柏軒が「目を泣き腫らし、額に青筋を出してゐた」状を記憶してゐて、屡《しば/\》人に語つたさうである。
森氏で此年枳園が将軍家茂に謁見した。其日は十二月五日であつた。
徳川家で此年の初に将軍家定が渋江抽斎と同じ病に罹り、抽斎に先《さきだ》つて薨じたのは、世の知る所である。故に年の末に森枳園を引見した将軍は家定ではなくて家茂である。枳園の寿蔵碑に誤つて家定に作つてあることは、嘗て抽斎伝に辯じて置いた。
阿部家では新主伊予守|正教《まさのり》が八月に入国した。わたくしは其|供廻《ともまはり》の誰々であつたかを知らぬが、医官中に伊沢氏の無かつたことは明である。正教の福山に著したのは八月二十九日であつたに、柏軒は二十二日に抽斎の臨終を見届け、棠軒は九月二十四日に纔《わづか》に駿府より帰つたからである。
此年棠軒二十五、妻柏二十四、女長五つ、良三つ、全安の女梅九つ、柏軒四十九、子鉄三郎十、女洲十八、国十五、安七つ、琴四つ、妾春三十四、榛軒未亡人志保五十九であつた。
安政六年は蘭軒歿後第三十年である。八月二十二日に柏軒が幕府の奥詰医師を拝し、二百俵三十人扶持を給せられた。己未の武鑑を検すれば「奥詰御医師、三十人扶持、まき丁、伊沢磐安」と記してある。亡兄榛軒の柏軒を幕府に薦めた志は此に始て酬いられたのである。
その三百七
柏軒は上《かみ》に記するが如く、安政己未に幕府の奥詰医師を拝した。躋寿館《せいじゆくわん》の講師となつてより既に八年、前将軍に謁見してより既に三年であつた。柏軒をして幕府の医官たらしめむとすることが、亡兄榛軒の素望《そばう》であつたことも、わたくしは又|上《かみ》に記した。
これに反して丙辰に始て阿部侯正弘に仕へたのは、榛軒の遺志でもなく、又柏軒自己の願ふ所でもなかつたさうである。しかし正弘は柏軒を獲た次年丁巳に、偶《たま/\》篤疾《とくしつ》に罹つて、遂に柏軒の治を受けて世を去つた。そして阿部家は伊予守|正教《まさのり》の世となつた。
渋江保さんは母にかう云ふ事を聞いた。正教の世となつてから、阿部家の一女が病んで柏軒の治を受けた。一日《あるひ》柏軒はこれを診して退き、「今日の御容態は大分宜しい」と云つた。然るに女《ぢよ》の病は程なく増悪《ぞうあく》して死に至つた。是より正教は柏軒を疎《うと》んじ、柏軒の立場は頗《すこぶる》危殆《きたい》に赴いた。恰も好し、幕府の任命が下つて、柏軒は幸にして苦境を脱することを得たと云ふのである。
此談の伝ふる所は頗《すこぶる》明確を闕いてゐる。阿部家の一女はその誰なるを詳《つまびらか》にしない。正弘の世を去つた丁巳六月十七日より柏軒の奥詰を拝した己未八月廿二日に至る間に夭した人は戊午六月五日に亡くなつた正寧の女|操子《さうこ》四歳、法諡《はふし》麗樹院があるのみである。
わたくしの此談を記するのは、柏軒の気質を証するが如きを覚ゆるからである。此談は柏軒が予後《よご》を誤つたことを伝へてゐる。予後を誤ることは豪邁なる医の免れ難い所である。気象豪邁なるときは、技術に諳錬《あんれん》してゐても、予後を説くに臨んで用意の周全を闕く。誤《あやまり》に陥り易い所以である。
柏軒は幕府に仕へて頭初より奥詰を拝した。松田氏が柏軒の多紀|※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、辻元冬嶺の歿後に出たのを、其重用せらるゝ一因としてゐることは既に云つた。しかし松田氏は又かう云つてゐる。幕府は医家中に於て多紀氏を重視してゐた。柏軒は幼より多紀※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭の講筵に列してゐて、多紀氏の準門人である。それゆゑその任用せられたのは、多紀氏の余沢である。柏軒は一面多紀氏累世の余沢を被り、一面※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭歿後多紀両家の当主が皆弱冠であつたために群を抜いて立身する便を得たのだと云つてゐる。是は首肯すべき論である。
柏軒は奥詰医師に任ぜられた頃、中橋よりお玉が池に居を移したらしい。文淵堂所蔵の花天月地《くわてんげつち》に、小島成斎の柏軒に与へた書があつて、日附は九月二十二日である。そして書中には柏軒の仕宦と移居との事が併せ記し
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