しからず》。行程八里余。」
 詩が三首ある。「早発高崎過豊岡村。駅市連荒径。村駄犢雑駑。※[#「糸+樔のつくり」、第4水準2−84−55]車桑下舎。水碓澗辺途。遠岳朝雲隠。新秧昨雨蘇。未知行旅恨。探勝費工夫。経琵琶渓到碓冰関作。琵琶渓上路。曲々繞崔嵬。山破層雲起。水衝奇石※[#「さんずい+回」、第3水準1−86−65]。拠高孤駅在。守険大関開。詩就叩岩額。金声忽発来。宿阪本駅聞杜鵑。五更雲裏杜鵑飛。遠近啼過幾翠微。此去探幽今作始。遮渠不道不如帰。」

     その三十一

 第五日は文化三年五月二十三日である。「廿三日卯時に発す。駅を出れば直に碓氷峠のはね石坂なり。上ること廿四丁、蟠廻《はんくわい》屈曲して山腹岩角を行く。石塊|※[#「山/元」、7巻−60−下−2]※[#「山/元」、7巻−60−下−2]《ぐわん/\》大さ牛のごとくなるもの幾百となく路に横り崖《がい》に欹《そばた》つ。時|已《すでに》卯後、残月光曜し山気冷然として膚《はだへ》に透《とほ》れり。撫院をはじめ諸士歩行せし故、路険に労して背汗|※[#「さんずい+揖のつくり+戈」、第4水準2−79−34]※[#「さんずい+揖のつくり+戈」、第4水準2−79−34]《しふ/\》たり。乃《すなはち》撫院|衣《きぬ》一《ひとつ》ぬぎたり。忽ち岩頭に芭蕉の句碑あり。一つ脱で背中に負ぬ衣更《ころもかへ》といふ句なり。古人の実境を詠ずる百歳の後合する所あり。四軒茶屋あり。(此まで廿四丁也。)蕨粉《わらび》餅を売る、妙なり。又上ること一里|許《きよ》、山少くおもむろに石も亦少し。路傍は草莽《さうもう》にて、巓《いたゞき》は禿《とく》せり。北《ほく》五|味子《みし》(此地方言牛葡萄)砂参《しやじん》(鐘草《つりがねさう》)升麻《しようま》(白花筆《はくくわひつ》様のもの)劉寄奴《りうきど》(おとぎりさう)蘭草(ふぢばかま、東都は秋中花盛なれども、此地は此節花盛なり、蘭の幽谷に生ずる語証とすべし、世人は幽蘭をもつて真蘭とす、幽蘭いかでかかくのごとき地に生ずべけん)の類至て多し。山中《やまなか》といふ所にいたる。経来《へきたり》し磴路《とうろ》崖谷《がいこく》みな眼下指頭にあり。東南の方《かた》ひらけて武蔵下野上野、筑波日光の諸山を望む。今春江戸の回禄せしときも火光を淡紅にあらはせりと、茶店《ちやてん》の老婦語れり。日本紀に倭武尊《やまとたけのみこと》あづまを望れし事あり。此所ならん。又山を紆※[#「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1−90−16]《うえい》して上る。大仁王の社《やしろ》にいたる。喬木数株あり。一坂こゆれば熊野社なり。社庭に正応五年の鐘あり。社前に石車輪《せきしやりん》一隻を造れり。径《わたり》一尺五六寸なり。往年此|村長《むらのをさ》社前の石階を造りてなれり。名を後世にのこさんことを欲してこのものを造りおけり。乃《すなはち》其家の紋なりと社主かたる。門前に上野信濃国界の碑あり。半里下山して軽沢の駅にいたる。蕎麦店に入りて喫するに其清奇いふべからず。しかれども豆漿《とうしやう》渋苦惜むべし。一里五丁沓掛駅。浅間岳を間近く望む。此とき巓に雲|掩翳《えんえい》して烟見えず。一里三丁追分駅。一里十丁小田井駅。一里七丁岩村田なり。駒形明神に詣《いた》る。駒形石全く鈴杜烏石《れいとうせき》の類なり。一里半塩灘駅。大黒屋義左衛門の家に宿す。主人少く学を好む。頃《このごろ》佐藤一斎の※[#「にんべん+至」、7巻−61−下−1]《てつ》佐藤|梅坡《ばいは》といふもの此に来て教授す。天民大窪酔客も亦来遊すといふ。此日天赫々なれども、山間の駅ゆゑ瘴気冷然たり。行程八里|許《きよ》。」碓氷峠の天産植物に言及してゐるのは、蘭軒の本色である。北五味子は南五味子のびなんかづらと区別する称である。砂参は鐘草とあるが、今はつりがねにんじんと云ふ。桔梗科である。つりがねさうは次の升麻と同じく毛※[#「くさかんむり/艮」、第4水準2−86−12]《まうこん》科に属して、くさぼたんとも云ふ。劉寄奴は今菊科のはんごんさうに当てられ、おとぎりさうは金糸桃科の小連翹に当てられてゐる。蘭軒は前者を斥してゐるのであらう。
 詩が二首ある。「碓氷嶺。碓氷危険復幽深。五月山嵐寒透襟。蘿掛額般途九折。雲生脚底谷千尋。顧看来路人如豆。仰望前巓樹似簪。欲訪赤松応不遠。群羊化石石成林。望浅間岳。信陽第一浅間山。劣与芙蓉伯仲間。岳勢肥豊不危険。焔烟日日上天※[#「門<環のつくり」、7巻−61−下−16]。」
 第六日。「廿四日卯時に発し、朝霧《てうむ》はれんとするとき、筑摩川の橋を渡る。此より浅間岳を望む。烟の升《のぼ》る焔々たり。此川|大《おほい》なれども水至て浅し。礫砂至て多し。万葉新続古今雪玉集みなさゞれ石をよみたり。古来
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