よりの礫川《れきせん》と覚ゆ。廿七町八幡駅。卅二町望月駅。城光院に詣《いた》る。一里八丁蘆田駅。一里半長窪駅也。下和田に至て若宮八幡の社《やしろ》あり。此社前に小渠ありて九尺|許《きよ》の橋を架たり。其上に屋根をふき欄干をつけたり。世人和田義盛の墳なりといふ碑に天正十九年の字あり。実は大井信定の墓なり。上和田駅風越山|信定寺《しんぢやうじ》といふ禅寺の守《まもる》ところにして、寺後に信定の城墟あり、石塁今に存といふ。二里上和田の駅。比野屋又右衛門の家に宿す。(信定のこと主人の話なり。寺は余|行《ゆい》て見る。)此地蚊なし。※[#「巾+厨」、第4水準2−8−91]《かや》を設ず。暑亦|不甚《はなはだしからず》。行程六里許。」信定は武石大和守信広の二男で、始て和田氏を称した。武石氏も和田氏も、皆|所謂《いはゆる》大井党の支流であつた。和田氏は武田晴信に滅された。蘭軒は晴信の裔《すゑ》であつたので、特に信定の菩提所をも訪うたのであらう。
その三十二
第七日は文化三年五月二十五日である。「廿五日卯時に発す。和田峠を過ぐ。山気至て冷なり。水晶花(卯の花)紫繍毬《ししうきう》(あぢさゐ)蘭草花開たり。細辛《さいしん》(加茂葵)杜衡《とかう》(ひきのひたひ草)多して上品なり。就中《なかんづく》夏枯草《かこさう》(うつぼ草、全く漢種のごとし)萱草《くわんざう》(わすれ草、深黄色甚多し)最多し。満山に紫黄相|雑《まじ》りて奇麗繁華限なし。喬木一株もなく亦鳥雀なし。(これよりまへ碓氷《うすひ》峠その外木曾路の山中鳥雀いたつてまれなり。王安石一鳥不鳴山更幽の句|覚妙《めうをおぼゆ》。)谷おほくありて山形甚円く仮山《かざん》のごとし。下諏訪|春宮《はるみや》に詣り、五里八丁下諏訪の駅に到る。温泉あり。綿の湯といふ。上中下《かみなかしも》を分《わかつ》ている。上の湯は清灑《せいしや》にして臭気なし。これを飲めば酸味あり。上の湯の流あまりを溜《たむ》るを中といひ、又それに次《つぐ》を下といふ。轎夫《けうふ》駄児《たじ》の類浴する故|穢濁《くわいだく》なり。此湯疝ある人浴してよく治すといへり。〔此辺温泉おほし。小湯《こゆ》といふあり。小瘡《せうさう》によし。たんぐわの湯といふあり。性熱なり。小瘡を患《うれ》ふるもの小湯に入まさに治んとするとき此湯にいる。又上諏訪山中に渋の湯といふあり。はなはだ温ならず。しかれども硫黄《りうわう》の気強して性熱なり。一口のむときは忽《たちまち》瀉利《しやり》す。松本城下に浅間の湯といふあり。綿の湯と同じ。疝を治す。山辺の湯といふあり。疝癪の腹痛によし。至てぬるしといふ。〕下の諏訪秋宮に詣り、田間の狭路をすぐ。青稲《せいたう》脚を掩ひ鬱茂せり。石川《せきせん》あり。急流|※[#「王+爭」、第4水準2−80−78]々《さう/\》として湖《こ》に通ず。諏訪湖水面漾々たり。塩尻峠を越え、三里塩尻駅。堺屋彦兵衛の家に投宿す。下条《げでう》兄弟迎飲す。(兄名|成玉《せいぎよく》、字叔琢《あざなはしゆくたく》、号寿仙《じゆせんとがうす》、弟名|世簡《せいかん》、字|季父《きふ》、号春泰《しゆんたいとがうす》、松本侯臣、兄弟共泉豊洲門人なり。)家居頗富。書楼薬庫山池泉石尤具す。薬方両三を伝。歓話夜半に及てかへる。此日暑甚。行程八里半|許《きよ》。」細辛はアサルムの数種に通ずる名だから、此文はかもあふひの双葉細辛を斥してゐるのであらう。杜衡はかんあふひか。うつぼぐさは※[#「さんずい+除」、第3水準1−86−94]州《ぢよしう》夏枯草か。
詩。「和田嶺。一渓渓尽復巌阿。路自白雲深処過。薬艸如春花幾種。黄萱最是満山多。諏訪湖。琉璃鏡面漾新晴。粉※[#「土へん+楪のつくり」、第4水準2−4−94]浮沈高島城。遙樹如薺波欲浸。低田接渚緑方平。漁船数点分烟影。駅馬一行争晩程。繚繞湖辺千万嶺。芙蓉雪色独崢※[#「山+榮」、第3水準1−47−92]。宿塩尻駅下条兄弟迎飲。嘗結茗渓社。今来塩里廬。山泉宜煮薬。岩洞可蔵書。爽籟涼生処。旧遊談熟初。暑氛与客恨。酔倒一時虚。」
第八日。「廿六日卯時に発す。一里三十丁、洗馬駅。三十丁本山駅なり。此駅前月火災ありて荒穢《くわうくわい》なり。これより木曾路にかかる。此辺に喬木おほし。ゆく先も同じ。崖路を経堺橋をすぎて二里熱川駅。一里半奈良井駅。午後鳥居峠にいたる。御嶽山近く見ゆ。白雪|巓《いたゞき》を覆ふ。轎夫《けうふ》いふ。御嶽山上に塩ありと。所謂《いはゆる》崖塩なるべし。一里半藪原駅。二里宮越駅。若松屋善兵衛の家に宿《やどる》。此日暑甚し。三更のとき雨降。眠中しらず。行程九里|許《きよ》。」
その三十三
第九日は文化三年五月二十七日である。「廿七日卯時に発す。朝霧《てうむ》深し。
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