日暑甚し。行程八里許。」
 蘭軒の父信階は板橋で曲淵を待ち受けて謁見したものと見える。
 頼子善、名は遷《せん》、竹里《ちくり》と号した。蘭軒を板橋迄見送つた。富士川さんは「子善は蘭軒の家に寓してゐたのではなからうか」と云ふ。或はさうかも知れない。此人の山陽の親戚であることは略《ほゞ》察せられるが、其詳なることは知れてゐない。
 わたくしはこれを頼家の事に明い人々に質《たゞ》した。木崎好尚《きざきかうしやう》さんは頼遷は即頼公遷であらうと云ふ。公遷号は養堂、通称は千蔵である。山陽の祖父又十郎|惟清《これきよ》の弟伝五郎|惟宣《これのぶ》の子である。坂本|箕山《きざん》さんも亦、頼綱《らいかう》の族であらうと云ふ。綱、字は子常《しじやう》、号は立斎《りつさい》、通称は常太《つねた》で、公遷の子である。
 幸にしてわたくしの近隣には、山陽の二子|支峰《しほう》の孫久一郎さんの姻戚熊谷|兼行《かねゆき》さんが住んでゐるから、頼家に質して貰ふことにして置いたが、未だ其答に接せない。
 ※[#「くさかんむり/姦」、7巻−58−下−2]斎詩集には「到板橋駅作」がある。「生来未歴旅程遐。此日真堪向客誇。三百里余瓊浦道。従今不復井中蛙。」

     その三十

 旅行の第二日は文化三年五月二十日である。紀行に曰く。「廿日卯時に発す。二里八丁上尾駅、一里桶川駅、一里卅町鴻の巣駅。午時《うまのとき》吹上堤を過ぐ。左は林近く田野も甚ひろからず。荒川の流遠くより来る。右は山林遠く田野至て濶く、溝渠縦横|忍城《をしじやう》樹間に隠顕して、遠黛《ゑんたい》城背に連続す。四里八丁熊谷駅。絹屋新平の家に投宿す。時正に申なり。蓮生山熊谷寺《れんしやうざんゆうこくじ》に詣《いた》り、什物《じふもつ》を看むことを乞ふ不許《ゆるさず》。碑図末に附す。此日炎暑昨日より甚し。行程九里|許《きよ》。」吹上堤を過ぐの下《しも》に、「吹上堤一に熊谷堤ともいふ」と註してある。
 詩集に「熊谷堤」三首がある。其一。「熊谷長堤行且休。荒川遠出鬱林流。漁歌一曲蒹葭底。只見※[#「竹かんむり/高」、第3水準1−89−70]尖不見舟。」其二。「十里青田平似筵。濃烟淡靄共蒼然。遠村尽処山城見。粉※[#「土へん+楪のつくり」、第4水準2−4−94]樹間断又連。」其三。「無数連山映夕陽。如浪起来如黛長。轎夫顧我揚※[#「竹かんむり/(エ+おおざと)」、第3水準1−89−61]指。西是秩峰北日光。」
 第三日は五月二十一日である。紀行に曰く。「廿一日卯時に発す。二里卅丁深谷駅。駅を出て普済寺に詣《いた》る。二里廿九町本荘駅なり。釧雲泉《くしろうんせん》を訪。前月信濃善光寺へ行き、遇はず。二里新町駅。これより上野《かうづけ》なり。神奈川を渡る。川広六七町なれども、砂石のみありて水なし。空《むなし》く※[#「土へん+巳」、第3水準1−15−36]橋《いけう》を架《かせる》ところあり。又少く行烏川を渡る。川広一町余、あさし。砂石底を見るべし。時正に未後《びご》。西方の秩父山にはかに陰《くもり》て、暗雲|蔽掩《へいえん》し疾電いるがごとし。しかれども北方日光の山辺は炎日赫々なり。川を渡て行こと半里|許《きよ》、天|増《ます/\》陰り、墨雲|弥堅《びけん》迅雷驟雨ありて、廻風|轎《かご》を揺《うごか》せり。倉野駅に到て漸く霽《は》る。乃《すなはち》日暮なり。林屋留八の家に宿す。行程九里許。」釧雲泉の家は当時今の児玉郡本荘町にあつたと見える。
 集に「渡烏川値雨」の詩がある。「溶々還濺々。方舟渡広河。村吏尋灘浅。棹郎訴石多。奇峰※[#「山/頽」、7巻−59−下−6]作雨。澄鏡暗揚波。蓑笠無遑著。漫趨数里坡。」
 第四日。「廿二日卯時に発す。一里十九丁高崎駅なり。郊に出て顧望するときは高崎城を見る。小嶺に拠て築けり。此郊|甚《はなはだ》平坦にして、野川清浅、砂籠《さろう》岸を護し長堤村を繞《めぐ》る。或渠流を引いて水碓《すゐたい》を設く。幽事喜ぶべし。時正に巳。豊岡村を過ぐ。路傍の化僧一|木偶《もくぐう》を案上に安んじて銭を乞ふ。閻王なりといふ。其状鎧を被《かうぶ》り※[#「僕」の「にんべん」に代えて「巾」、第3水準1−84−12]頭《ぼくとう》を冠《くわん》し手に笏《こつ》を持る、顔貌も甚|厳《おごそか》ならず。造作の様頗る古色あり。豊岡八幡の社に詣《いた》る。境中狭けれども一|茂林《もりん》なり。茅茨《ばうじ》の鐘楼あり。一里卅丁板鼻駅、二里十六丁松井田駅なり。時正に未。円山坂に到る。茶釜石といふ者あり。大さ三尺許り。形|蓮花《れんくわ》のごとし。叩くときは声を発す。石理《せきり》及其声|金磬石《きんけいせき》なり。碓氷関《うすひのせき》を経《ふ》。二里坂本駅。信濃屋新兵衛の家に宿す。暑|不甚《はなはだ
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