飯田氏益であることは明である。「おさよどの」の事は注目に値する。二十余通の茶山の書に一としておさよどのに宜しくを忘れたのは無い。後年の書には「おさよどのに申候、(中略)御すこやかに御せわなさるべく候」とも云つてある。
 さよは蘭軒の側室である。分家伊沢の家乗には、蘭軒に庶出の子女のあつたことが載せてあるのみで、側室の誰なるかは記して無い。只先霊名録の蘭軒庶子|女《ぢよ》の下に母佐藤氏と註してあるだけである。武蔵国葛飾郡小松川村の医師佐藤氏の女が既に狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の生父に嫁し、後又同家の女が蘭軒の二子柏軒の妾《せふ》となる。此蘭軒の妾も亦同じ家から出たのではなからうか。其名のさよをば、わたくしは茶山の簡牘《かんどく》中より始て見出した。要するに側室は佐藤氏さよと云つたのである。
 既に云つた如くに、茶山の蘭軒との交《まじはり》は、前年文化紀元よりは古さうであるが、さよを識つてゐたことも亦頗る古さうである。想ふに早く足疾ある蘭軒は介抱人がなくてはかなはなかつたのであらう。此年の如きも詩集に一病字をだに留めぬのに、茶山は病気みまひを言つてゐる。上《かみ》に引いた文の前に、猶「春以来御入湯いかゞ」の句もある。後年の自記に、阿部家に願つて、「湯島天神下|薬湯《やくたう》へ三|廻《めぐり》罷越《まかりこす》」と云ふことが度々ある。此入湯の習慣さへ既に此時よりあつたものと見える。介抱人がなくてはならなかつた所以《ゆゑん》であらう。
 書中の手足痛《しゆそくつう》に悩む「荊妻」は、茶山の継室|門田《もんでん》氏、菅三は仲弟猶右衛門の子要助の子三郎|維繩《ゐじよう》で、茶山の養嗣子である。

     その二十九

 此年文化二年十月二十四日に、蘭軒は孝経一部を手写した。二子常三郎の生れたのは此日である。孝経の末《すゑ》に下《しも》の文がある。「文化乙丑小春廿四日、据毛本鈔矣、斯日巳刻児生、其外祖父飯田翁(自註、名信方、字休庵)与名曰常三郎、恬。」常三郎は後父に先《さきだ》つこと四十五日にして早世する、不幸なる子である。
 頼家に於て山陽が謹慎を免され、門外に出ることゝなつたのは、此年五月九日である。
 此年蘭軒は二十九歳、妻益は二十三歳であつた。蘭軒の二親《ふたおや》六十二歳の信階、五十六歳の曾能《その》も猶倶に生存してゐたのである。
 文化三年は蘭軒が長崎へ往つた年である。蘭軒が能く此旅を思ひ立つたのを見れば、当時足疾は猶軽微であつたものと察せられる。※[#「くさかんむり/姦」、7巻−56−下−13]斎《かんさい》詩集に往路の作六十三首を載せてゐる外、集中に併せ収めてある「客崎詩稿」の詩三十六首がある。又別に「長崎紀行、伊沢信恬撰」と題した自筆本一巻がある。墨附三十四枚の大半紙写本で、「伊沢氏酌源堂図書記」「森氏」の二朱印がある。格内毎半葉十二行、行十八字乃至二十二字である。此書も亦、彼詩集と同じく、富士川游さんの儲蔵する所となつてゐる。
 蘭軒の長崎行は、長崎奉行の赴任する時に随行したのである。長崎奉行は千石高で、役料四千四百二俵を給せられた。寛永前は一人を置かれたが、後二人となり三人となり四人となり、文化頃には二人と定められてゐた。文化二年に職にゐたのは、肥田豊後守|頼常《よりつね》、成瀬|因幡守正定《いなばのかみまささだ》であつた。然るに肥田頼常が文化三年正月に小普請奉行に転じ、三月に曲淵和泉守景露《まがりぶちいづみのかみけいろ》がこれに代つた。蘭軒は此曲淵景露の随員となつて途に上つたのである。序に云ふが、徳川実記は初め諸奉行の更迭を書してゐたのに、経済雑誌社本の所謂《いはゆる》続徳川実記に至つては、幕府末造の編纂に係る未定稿であるから、記載極て粗にして、肥田曲淵の交代は全く闕けてゐる。今武鑑に従つて記することにした。
 蘭軒略伝には蘭軒は榊原|主計頭《かぞへのかみ》に随つて長崎に往つたと云つてある。文化中の分限帳を閲《けみ》するに、「榊原主計、三百石、かがやしき」としてある。しかし文化三年の役人武鑑はこれを載せない。按ずるに榊原主計は当時無職の旗本であつたであらう。此榊原が曲淵の一行中に加はつてゐたかどうかは不明である。
 蘭軒は五月十九日に江戸を発した。紀行に曰く。
「文化丙寅五月十九日、長崎|撫院《ぶゐん》和泉守曲淵公に従て東都を発す。巳時板橋に到て公|小休《こやすみ》す。家大人《かたいじん》ここに来て謁見せり。余|小茶店《せうちやてん》にあり。頼子善《らいしぜん》送て此に到る。午後駅を出て小豆沢《あづさは》村にいたる。小民《せうみん》勘左衛門の園中一根八竿の竹あり。高八尺|許《きよ》、根囲《ねのめぐり》八寸許の新竹也。二里八丁蕨駅、一里八丁浦和駅、十一里十二丁大宮駅。亀松屋弥太郎の家に宿す。此
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