月を看たことを言ひ、後の作は茶店で酒を飲んだことを言ふ。彼の七八に「手掃蒼苔踞石上、松陰徐下棹郎歌」と云つてある。当時のお茶の水には多少の野趣があつたらしい。此《これ》の頷聯《がんれん》に「旗亭敲戸携樽至、茶店臨川移榻来」と云つてある。料理屋で酒肴を買ひ調へて、川端の茶店に持つて往つて飲んだのではなからうか。
蘭軒が茶山とお茶の水で月を看た後九日にして、八月二十五日に蘭軒の嫡子|榛軒《しんけん》が生れた。小字《をさなゝ》は棠助《たうすけ》である。後良安、一安、長安と改めた。名は信厚《しんこう》、字《あざな》は朴甫《ぼくほ》となつた。
分家伊沢の伝ふる所に従へば、榛軒は厚朴《こうぼく》を愛したので、名字号皆義を此木に取つたのだと云ふ。厚朴の木を榛と云ふことは本草別録に見え、又|急就篇《きふしゆへん》顔師古《がんしこ》の註にもある。又門人の記する所に、「植厚朴、参川口善光寺、途看于花戸、其翌日持来植之」とも云つてある。しかしわたくしの考ふる所を以てすれば、蘭軒は子に名づくるに厚《こう》を以てし重《ちよう》を以てした。これは初め必ずしも木の名ではなかつたであらう。紀異録に「既懐厚朴之才、宜典従容之職」と云つてある。名字は或は此より出でたのではなからうか。さて木名に厚朴があるので、此木は愛木となり、又榛軒の号も出来たかも知れない。厚朴は植学名マグノリア和名ほほの木又ほほがしはで、その白い大輪の花は固より美しい。榛軒は父蘭軒が二十八歳、母飯田氏益が二十二歳の時の子である。
茶山は其後九月中江戸にゐて、十月十三日に帰途に上つた。帰るに先《さきだ》つて諸家に招かれた中に古賀精里の新に賜つた屋敷へ、富士を見に往つたなどが、最も記念すべき佳会であつただらう。精里の此邸宅は今の麹町富士見町で、陸軍軍医学校のある処である。地名かへる原を取つて、精里は其楼を復原《ふくげん》と名づけた。茶山は江戸にゐた間、梅雨を中に挾んで、曇勝な日にのみ逢つてゐたので、此日に始て富士の全景を看た。「博士新賜宅。起楼向※[#「厂+垂」、7巻−54−上−6]※[#「厂+義」、7巻−54−上−6]。亦恨落成後。未逢雲雨披。忽爾飛折簡。置酒招朋儕。新晴無繊翳。秋空浄瑠璃。芙蓉立其中。勢欲入座来。(中略。)我留過半載。此観得已稀。」茶山の喜想ふべきである。
十月十三日に茶山は阿部|正精《まさきよ》に扈随《こずゐ》して江戸を発した。「朝従熊軾発城東。海旭添輝儀仗雄。十月牢晴春意早。懸知封管待和風。」これが「晨出都邸」の絶句である。十一月五日に備中国の境に入つて、「入境」の作がある。此篇と前後相呼応してゐる。「熊車露冕入郊関。児女扶携挾路看。兵衛一行千騎粛。和風満地万人歓。」
その二十八
文化二年には蘭軒の集に「乙丑元日」の七律がある。両聯は措いて問はない。起二句に「素琴黄巻未全貧、朝掃小斎迎早春」と云つてある。未だ全く貧ならずは正直な告白で、とにもかくにも平穏な新年を迎へ得たものと見られる。結二句には二十九歳になつた蘭軒が自己の齢《よはひ》を点出してゐる。「歓笑優遊期百歳、先過二十九年身」と云ふのである。
七月十五日に蘭軒は木村|文河《ぶんか》と倶に、お茶の水から舟に乗つて、小石川を溯つた。此等の河流も今の如きどぶでは無かつただらう。三絶句の一に、「墨水納涼人※[#「騰」の「馬」に代えて「貝」、第3水準1−92−27]有、礫川吾輩独能来」と云つてある。墨水の俗を避け、礫川《れきせん》の雅に就いたのである。
茶山の事は蘭軒の懐に往来してゐたと見えて、「秋日寄懐菅先生」の七律がある。「去年深秋君未回。賞遊吾毎侍含杯。菅公祠畔随行野。羅漢寺中共上台。飛雁遙書雖易達。畳雲愁思奈難開。機中錦字若無惜。幸織満村黄葉来。」蘭軒は前年茶山の江戸にゐた間、始終附いて歩いて少酌の相手をしたと見える。詩は題して置かなかつたが、亀井戸の天満宮に詣でた。本所の五百羅漢をも訪うたのである。結では黄葉夕陽村舎の主人《あるじ》に手紙の催促がしてある。
然るに蘭軒の催促するを須《ま》たず、茶山は丁度此頃手紙を書いた。即ち八月十三日の書で、前に引いた所のものが是である。「私も秋へなり、蠢々《しゆん/\》とうごき出候而状ども認候、御内上《おんうちうへ》様、おさよどのへ宜奉願上候、(中略)江戸は今年気候不順に御坐候よし、御病気いかゞ御案じ申候。」此に前年を追懐した数句があつて、末にかう云つてある。「今年《こんねん》は水辺《すゐへん》へ出可申心がけ候処、昨日より荊妻|手足痛《てあしいたみ》(病気でなければよいと申候)小児|菅《くわん》三|狂出候而《くるひいでそろて》どこへもゆかれぬ様子也、うき世は困りたる物也、前書|委《くはしく》候へば略し候、以上。」
茶山がコムプリマンを託した御内上様が
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