も花火に及ばなかつた。蘭軒の題にダアトのあつたのもわたくしのためにはうれしかつた。

     その二十六

 蘭軒が茶山を連れて不忍池《しのばずのいけ》へ往つて馳走をしたのも、此頃の事であらう。茶山の集に「都梁觴余蓮池」として一絶がある。「庭梅未落正辞家。半歳東都天一涯。此日秋風故人酒。小西湖上看荷花。」わたくしは転句に注目する。蓮は今少し早くも看られようが、秋風《しうふう》の字を下したのを見れば、七月であつただらう。又故人と云ふのを見れば、文化元年が茶山蘭軒の始て交つた年でないことが明である。
 蘭軒と※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎とは又今一人誰やらを誘《いざな》つて、不忍池へ往つて一日書を校し、画工に命じて画をかゝせ、茶山に題詩を求めた。集に「卿雲都梁及某、読書蓮池終日、命工作図、需余題詩」として一絶がある。「東山佳麗冠江都。最是芙蓉花拆初。誰信旗亭糸肉裏。三人聚首校生書。」結句は伊狩《いしう》二家の本領を道破し得て妙である。
 八月十六日に茶山は蘭軒を真砂町附近の家に訪うた。わたくしは此会合を説くに先《さきだ》つて一事の記すべきものがある。饗庭篁村《あへばくわうそん》さんは此稿の片端より公にせられるのを見て、わたくしに茶山の簡牘《かんどく》二十一通を貸してくれた。大半は蘭軒に与へたもので、中には第三者に与へて意を蘭軒に致さしめたものもある。第三者は其全文若くは截り取つた一節を蘭軒に寄示したのである。要するに簡牘は皆分家伊沢より出でたもので、彼の太華の手から思軒の手にわたつた一通も亦此コレクシヨンの片割であつただらう。今八月十六日の会合を説くには此簡牘の一通を引く必要がある。
 茶山の書は次年八月十三日に裁したもので、此に由つて此文化紀元八月中旬の四日間の連続した事実を知ることが出来る。其文はかうである。「今日は八月十三日也、去年今夜長屋へ鵜川携具来飲、明日平井黒沢来訪、十五日舟遊、十六日黄昏貴家へ参、備前人同道、夫より茗橋々下茶店にて待月、却而逢雨てかへり候」と云ふのである。鵜川名は某、字《あざな》は子醇《しじゆん》、その人となりを詳《つまびらか》にせぬが、十三日の夜酒肴を齎して茶山を小川町の阿部邸に訪うたと見える。平井は澹所《たんしよ》、黒沢は雪堂であらう。澹所は釧雲泉《くしろうんせん》と同庚《どうかう》で四十六歳、雪堂は一つ上の四十七歳、並に皆昌平黌の出身である。雪堂は猶校に留まつて番員長を勤めてゐた筈である。
 さて十六日の黄昏《たそがれ》に茶山は蘭軒の家に来た。二人が第三者を交へずに、差向で語つたことは、此より前にもあつたか知らぬが、ダアトの明白なのは是日である。初めわたくしは、六七年前に伊沢氏に来て舎《やど》つた山陽の事も、定めて此日の話頭に上つただらうと推測した。そして広島|杉木小路《すぎのきこうぢ》の父の家に謹慎させられてゐた山陽は、此|夕《ゆふべ》嚔《くさめ》を幾つかしただらうとさへ思つた。しかしわたくしは後に茶山の柬牘《かんどく》を読むこと漸く多きに至つて、その必ずしもさうでなかつたことを暁《さと》つた。後に伊沢信平さんの所蔵の書牘を見ると、茶山は神辺《かんなべ》に来り寓してゐる頼|久太郎《ひさたらう》の事を蘭軒に報ずるに、恰も蘭軒未知の人を紹介するが如くである。或は想ふに、蘭軒は当時猶山陽を視て春水不肖の子となし、歯牙にだに上《のぼ》さずに罷《や》んだのではなからうか。

     その二十七

 蘭軒の家では、文化紀元八月十六日の晩に茶山がおとづれた時、蘭軒の父|隆升軒信階《りゆうしようけんのぶしな》が猶《なほ》健《すこやか》であつたから、定て客と語を交へたことであらう。蘭軒の妻益は臨月の腹を抱へてゐたから、出でゝ客を拝したかどうだかわからない。或は座敷のなるべく暗い隅の方へゐざりでて、打側《うちそば》みて会釈したかも知れない。益は時に年二十二であつた。
 蘭軒は茶山を伴つて家を出た。そしてお茶の水に往つて月を看た。そこへ臼田才佐《うすださいさ》と云ふものが来掛かつたので、それをも誘《いざな》つて、三人で茶店《ちやてん》に入つて酒を命じた。三人が夜半《よなか》まで月を看てゐると、雨が降り出した。それから各《おの/\》別れて家に還つた。
 蘭軒はかう書いてゐる。「中秋後一夕、陪茶山先生、歩月茗渓、途値臼田才佐、遂同到礫川、賞咏至夜半」と云ふのである。
 臼田才佐は茶山|書牘《しよどく》中の備前人である。備前人で臼田氏だとすると、畏斎《ゐさい》の子孫ではなからうか。当時畏斎が歿した百十五年の後であつた。茶店の在る所を、茶山は茗橋《めいけう》々下と書し、蘭軒は礫川《れきせん》と書してゐる。今はつきりどの辺だとも考へ定め難い。
 蘭軒の集に此|夕《ゆふべ》の七律二首がある。初の作はお茶の水で
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