を拒んだ。」
「大抵新に医者を薦めようとするものは、細に病因病候を質《たゞ》して、従前療治してゐる医者の言《こと》に疑を挾《さしはさ》み、病者若くは其周囲のものに同一の疑を起さしめようとする。それゆゑに先生は特に意を容態書に留め、記載に遺漏なからしめむことを期した。病因に至つては初より別にこれを一紙に書して人に示した。其大要はかうであつた。米使渡来|以還《このかた》政務の多端なることは古《いにしへ》より無き所である。其上乙卯の地震があり、丙辰の洪水があつた。此の如く内憂外患並び臻《いた》つた日に、公は局に当つて思を労した。公の病は此鬱懐の致す所である。此病因書の体裁は叙事と云はむよりは議論と云ふべきもので、多く素問が引いてあつた。わたくし(松田道夫)は此書の草本を蔵してゐたので、頃日《このごろ》捜索して見たが、未だ発見しない。」
「既にして公の病は革《すみやか》になつた。一日《あるひ》先生は高弟一同を集めて諭す所があつた。当時既に独立して家を成してゐた清川安策の如きも、此日には特に召喚せられた。」
「先生はかう云つた。此度の主君の大患は初より救治の見込が無い。然るに拙者は独りこれが治療に任じ、絶て人に諮《はか》らない。是は若し一人に諮るときは、二人三人が踵《つ》いで来り、蘭方医も亦|与《あづか》り聞かむと欲するに至らむこと必然であつたからである。今や主君の病は革になつた。問責の拙者が身上に及ぶこと数日を出でぬであらう。拙者は日本医方を辱めざらむがため、国威を墜さざらむがために敢て此に出た。それゆゑに心中毫も疚《やま》しき所が無い。しかし諸子の見る所は奈何《いかゞ》であるか。諸子はかくても猶籍を拙者の門下に置くことを厭はないかと云つた。」
「わたくし共(松田等)は同音に、先生のお詞《ことば》は御尤と存ずる、先生を棄てて去らむことは思ひも寄らないと答へた。」
「先生はこれを聞いて、喜《よろこび》色に形《あらは》れて云つた。諸子の頼もしい詞を承つて安堵した。諸子は縦《たと》ひ奈何《いか》なる事に遭遇するとも、従容としてこれに処し、妄《みだり》に言動すること無く、天下をして柏軒門下の面目を知らしむる様に心掛けるが好い。且今日諸子に告ぐる所は決して婦女子をして知らしめざる様にして貰ひたいと云つた。」
「わたくし共は粛然として先生に拝辞した。実に此日の会合は悲壮言語に絶してゐて、今に迄《いた》るまで忘れることが出来ない。」
その二百九十九
阿部正弘は丁巳の歳に病んで治を柏軒に託し、死に至るまで蘭方医をして診せしめなかつた。柏軒も亦正弘の意を体して蘭方医の来り近づくを防いだ。柏軒は蘭方医を延《ひ》くを以て、日本医方を辱むるものとなし、国威を墜すものとなしたのである。
柏軒の蘭方を排したのは家学を奉じたのである。しかし正弘が既に講武所に於て洋式操兵の術を伝習せしめ、又人を海外に派遣して視察せしむることを議しながら、独り西洋の医方を排したのは何故であらうか。
わたくしは正弘の蘭方を排したのは、榛軒に聴いたのではなからうかと以為《おも》ふ。徳《めぐむ》さんの蔵する所の榛軒の上書《じやうしよ》がある。是は献芹《けんきん》と題した一小冊子で、年月日を記せぬが、文中に嘉永辛亥に書いた証拠がある。「既に一昨年御医師中え被仰出候御書付之中風土之違候と申御文面尤緊要の御格言と奉存候」の語が即是である。所謂「一昨年」は禁令の出た己酉の歳で、「風土の違」は令中「風土も違候事に付、御医師中は蘭方相用候儀御制禁仰出され候」云々《しか/″\》の句である。上書は此の如く禁令の出た後に作られてはゐるが、榛軒の進言は恐くは此上書に始まつたのではなからう。或は榛軒は前に進言する所があつて、己酉の禁令は此に縁《よ》つて発せられたかも知れぬのである。
若し正弘が榛軒に聴いたとすると、榛軒の説は禁令の前後に差異があるべきではないから、禁令後の上書に就いて正弘の前に聞いた所の奈何《いかん》を窺ふことが出来る筈である。
わたくしは此に榛軒の蘭方を排する論を一顧しようとおもふ。人は或は昔日の漢方医の固陋の言は聞くに足らずとなすであらう。しかし漢医方の廃れ、洋医方の行はるるに至つたのは、一の文化の争で、其経過には必ずしも一顧の価がないことはなからう。
榛軒は伊勢安斎と桂川|桂嶼《けいしよ》とに依傍《いばう》して立言した。安斎は其随筆中に云つた。蘭医は五十年後に大に用ゐらるるであらう。それは快速と新奇とを好む人情に投ずるからであると云つた。桂嶼は嘗て榛軒に告げて云つた。西洋の学者及日本往時の洋学者は精細で、日本今時の洋学者は粗漏である。彼は真に西洋の書を読み、此は僅に飜訳書を読むが故である。真の蘭学者は和漢の学力を以て蘭書に臨まなくてはならぬと云つた。榛軒は蘭方の快
前へ
次へ
全284ページ中228ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング