速と新奇とに惑されむことを惧れ、又飜訳書を読んで自ら足れりとする粗漏なる学者に誤られむことを憂へた。
「川路聖謨之生涯」に正弘、小栗|忠順《たゞゆき》、川路聖謨《かはぢとしあき》等の説として、洋医は経験乏しく、且西洋に於る此学の真訣《しんけつ》未だ伝はらざるが故に洋医方は信じ難しと云つてあるのは、榛軒が引く所の桂嶼の説と全く同じである。
 しかし榛軒は啻《たゞ》に一知半解の洋医方を排したのみではなく、又洋医方そのものをも排した。

     その三百

 わたくしは阿部正弘が蘭医方を排したのは榛軒に聴いたものらしいと謂つて、榛軒の上書を引いた。榛軒は先づ桂川桂嶼と所見を同じうして、晩出蘭学者の飜訳書に由つて彼邦医方の一隅を窺ひ、膚浅《ふせん》粗漏を免れざるを刺《そし》つた。しかし榛軒の言《こと》は此に止まらない。榛軒は蘭医方そのものをも排してゐる。
 榛軒は西洋諸国を以て「天度地気の中正を得ざる国」となし、随つて彼の「人情も中正を得」ざるものとなした。それゆゑ其医方を「中正を得たる皇国」に施すことを欲せなかつた。今言《きんげん》を以て言へば、天度地気《てんどちき》はクリマである。風土である。人情は民性である。医薬の風土民性に従つて相異なるべきは、実に榛軒の言《こと》の如くである。しかしそれは微細なるアンヂカシヨンの差である。適応の差である。憾むらくは榛軒は此がために彼の医学の全体を排せむとした。
 正弘の発した禁令に、「風土も違候事に付(中略)蘭方相用候儀御制禁仰出され候」と云つてあるのは、榛軒の此説と符合する。
 榛軒は進んで蘭医方の三弊事をあげてゐる。一は解剖、二は薬方の酷烈、三は種痘である。
 榛軒は内景を知ることを要せずとは云はなかつた。蘭方医は内景を知ることを過重すると謂《おも》つた。「原来人身と申者(中略)陰陽二気の神機と申者にて生活仕候。」故に「神機も無き死人の解体」は過重すべきではないと云ふのである。神機説はヰタリスムである。ヰタリスムは独り素問に有るのみではなく、西洋古代の医学にも亦有つた。自然科学の発展はヰタリスムを打破したのである。
 榛軒は解剖することを非としたのではなく、寧《むしろ》屡《しば/\》解剖することを非とした。「一度解体仕候而内景の理を究め候上、実物実地を得候而、書に述、図に伝候得者、其上にては度々解体にも及申間敷」と云つた。是は内景が一剖観の窮め尽すべきでないことを思はなかつたのである。又外科の屍《しかばね》に就いて錬習すべきをも思はなかつたのである。
 しかし榛軒の解剖を悪《にく》む情には尊敬すべきものがある。「夫刑は罪の大小に従て夫々に処せらるるなり。既に其刑に処せらるれば、屍は無罪同然なり。夫故非人に被命、屍を暴露せぬ様にせさせたまふならはしなり。其屍体を再割解して※[#「くさかんむり/韲」、第4水準2−87−23]粉の如くなせば、是刑を重ぬる道理にて、仁人君子の為ざる所なり。其の為に忍びざることを(なし、)魚鳥を屠候同様之心得にて、嬉々談笑、公然と人天を憚らざる所行(あるが故に、)其不仁の悪習自然と平日の所行にも推移り染著す」云々。屠者には忍人が多い。解剖家外科医の此弊に陥らざることを得るのは、別に修養する所があつて、始て能く然るのである。要するに医の解剖するは已むことを得ざるに出づる。榛軒の説の如きは、藹然《あいぜん》たる仁人の言《こと》である。決して目するに固陋を以てすべきではない。
 榛軒の蘭医薬方の酷烈を非難し、又種痘を非難したことは、下《しも》に抄する如くである。

     その三百一

 榛軒は蘭医方の三弊事を挙げた。其一は解剖で、榛軒が解剖重んずるに足らずとなし、屡《しば/\》解剖することを要せずとなしたのは過つてゐる。しかしその解剖を悪《にく》む情には尊敬すべき所がある。
 其二は蘭医方の酷烈を非難するのであつた。榛軒は蘭方医「天に逆ふる猛烈酷毒之薬を用」ゐると云つた。其意「天命は実に人工の得て奪ふべからざる理」にして、「越人能く死人を生すにあらず、此れ自ら生くべき者、越人能これを起たしむ」、独り蘭方医は敢て天に逆《さか》はむとすと云ふにあつた。然らばその天と云ひ、天命と云ふは、何を以て知るか。「脈理を以て予め死を知り、天命の及ばざるを知」ると云ふのであつた。
 しかし洋医方の診断学も亦心臓機能を等間視してはゐない。洋薬の漢薬に比して強烈なのは、彼は製煉物を用ゐ、此は天産物を用ゐる差にあつて、強烈なれば其量を微にする。榛軒の非難は洋医方を知らざるに坐するものであつた。
 其三は種痘を非難するのであつた。榛軒は痘瘡《とうさう》を以て先天の「胎毒」が天行の「時気」に感触して発するものとなした。胎毒とは性欲の結果である。胎毒は外発すべきものである。しかしその外発は時を得
前へ 次へ
全284ページ中229ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング