殿へ勧め給ひしかど、とやかくといひのがれ給ひて、遂にうけひき給はざりけり。後に聞けば、近年蘭法の医流大に開け来にける折、此侯までも信用し給ひなば、天下一般に蘭家にもなりなん勢なれば、さては又其弊害あらむことを深く遠く慮《おもんぱか》り給ひて、蘭家の長処は心得給ひにけれ共、余はよしあしにはよらず、天下のために蘭家の薬は服し難しとのたまひけるとなん。」
当時政治が鎖国開国の岐《ちまた》に臨んでゐた如くに、医方も亦漢方洋方の岐に臨んでゐた。正弘は彼に於て概ね開国論に左袒し、伊沢|美作守政義《みまさかのかみまさよし》の洋行の議をさへ容れた。それは幕政の局に当つて財況其他の実情を知悉し、夷の攘《はら》ふべからず、戦の交ふべからざることを知つてゐたからである。しかし此に於ては漢方より洋方に遷ることを肯《がへん》ぜなかつた。それは洋方を取らざるべからざる境界に身を居くに及ばなかつたからである。正弘は固より保守の人であつた。勢に駆らるるにあらでは、故《ふる》きを棄てて新しきに就かなかつたのである。
しかしわたくしの見る所を以てすれば、正弘の病は洋医方の能く治する所ではなかつたらしい。正弘の病は癌であつたらしい。上《かみ》に引いた中根の記に「痞※[#「やまいだれ+鬲」、8巻−188−下−2]《ひかく》の症」と云つてあるのが其証の一である。又病を発してより未だ幾《いくばく》ならぬに、全身|痩削《そうさく》して相貌が変じたと伝へられてゐるのが其証の二である。
その二百九十七
わたくしは安政丁巳の歳老中阿部伊勢守正弘|捐館《えんくわん》の事を記して、其病を療したものが終始柏軒一人であつたと云つた。柏軒門人にして現存してゐる松田道夫さんは当時の事を語つてかう云つた。
「柏軒先生は豪邁な人であつた。しかし良徳公(正弘)に仕へては謹慎であつた。其頃わたくしに云ふには、公方様にはまだ近づいたことがないから知らぬが、老中若年寄の人達の中には、己のこはいと思つた人は無い、こはいのは内の殿様ばかりだ、前に出ると自然と体が小くなるやうな気がすると云ふことであつた。」
「その良徳公が大患に罹られて、先生が一人で療治したのだから、先生の苦心は一通ではなかつた。しかも先生が一人で療治したと云ふのは、今謂ふ主治医であつたと云ふ意味ではない。実際匙を執るものが先生一人であつたのである。」
「公が病のために引き籠られてからは、将軍家を始、列侯諸役人の見舞が引きも切らぬので、毎日容態書を作つて置いて見せなくてはならなかつた。先生はそれをわたくしに命じた。わたくしは毎日一|尋《ひろ》に余る容態書を作つた。」
「容態は次第に険悪に赴いた。かう云ふ時、医者を取り換へて見てはどうかと云ふ議の起るのは、上下共同じ事である。公の場合にも亦此議が起つた。水戸老公(斉昭)越前侯(慶永)がその主なるものであつた。水戸老公は攘夷家であつたから、蘭医を薦めようとはせられなかつた。しかし越前侯は蘭医に療治させようとしてあらゆる手段を竭された。」
「しかし良徳公は嘗て一たび蘭方を用ゐぬと云ふ法令を布《し》いて、終世其意見を変ぜずにしまはれた人である。縦《よ》しや蘭方に長の取るべきがあつても、世を挙げて漢方に背き蘭方に向はしむるは危険だと思惟し、自ら範を天下に示さうとせられたのである。」
「公は上《かみ》に居つて此の如くに思惟せられた。そして柏軒先生は下《しも》に居つて公の意を体し、自己の態度を確定して動かなかつた。先生はかう云つた。我医方は漢医方から出たものではあるが、和漢の風土性情の相異なるがために、今は日本の医方になつてゐるものである。老中が病んで日本医方がこれを治することが出来ずに、万一蘭医方の力を藉ることがあつたなら、それは日本医方を辱むるものである。日本医方を辱むるは国威を墜す所以である。公の病は仮令何人をして治せしめようとも、治すべきものではない。蘭方医と雖も同じである。更に思ふに蘭方に若しこれを治する薬があつても、公はこれを服せずして死なれた方が好い。公の一身は重しと雖も、国威には代へられない。わたくしは公と心を同《あは》せて蘭方医をして公の病牀に近づかしめぬやうにしようとおもふ。公にして諱《い》むべからざるあつて、わたくしが責《せめ》を問はれる日には、わたくしは割腹して謝する積である。天地神明も照覧あれ、わたくしの心事は公明正大であると、先生は云つた。」
その二百九十八
松田氏は語を続いだ。
「病中の主君良徳公(阿部正弘)とこれを療する柏軒先生とは、此の如く心を同じうして蘭方医の近づくを防いだ。しかし此主従が防ぎおほせたには、阿部家の用人藤田与一兵衛の応対折衝も与《あづ》かつて力があつた。藤田は心の利いた人で、能く公の意を体して列侯諸有司の慫慂《すゝめ》
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