しは賢所《けんしよ》参集所の東南にも一株あつたかと記憶する。
「二、あかめがしはは普通に梓としてある。上野公園入口の左側土堤の前、人力車の集る処に列植してある。マルロツス属の木である。」
「三、あづさは今名《きんめい》よぐそみねばり又みづめ、学名ベツラ、ウルミフオリアで、樺木属《くわぼくぞく》の木である。西は九州より東北地方までも広く散布せる深山の落葉木で、皮を傷くれば一種の臭気がある。是が昔弓を作つた材で、今も秩父ではあづさと称してゐる。漢名は無い。」
 問題は茲に渙釈《くわんしやく》したらしい。わたくしは牧野氏の書牘《しよどく》を抄するに当つて、植学名の末の人名を省略した。原文は横文で一々人名が附してあつたのである。
 わたくしは事の次《ついで》に言つて置く。昔の漢医方時代には詩や離騒《りさう》の動植を研究した書が多く出でた。我万葉集の動植の考証の如きも亦同じである。然るに西学が東漸して文化の大に開けた今の世に、絶て此種の書の出づるを見ぬのは憾むべきである。仄に聞けば今の博物学の諸大家は所謂漢名和名の詮議は無用だと云つてゐるさうである。漢名和名の詮議が博物学に貢献する所の少いことは勿論であらう。しかし詩を読み、離騒を読み、万葉集を読むものは、その詠ずる所の何の草、何の木、何の禽《とり》、何の獣であつたかを思はずにはゐられない。今より究め知ることの出来る限は究め知りたいものである。漢名和名の詮議が無用だとする説は、これを推し拡めて行くと、古典は無用だとする説に帰着するであらう。今の博物学の諸大家の説に慊《あきたら》ざる所以である。
 わたくしは右の詩、離騒、万葉等の物名を考究するに先《さきだ》つて、広く動植金石の和漢名を網羅した辞書を編纂することの必要を思ふ。其体裁は略《ほゞ》松村氏の植物名彙、小藤《ことう》氏等の鉱物字彙の如くにして、これに索引の完全なるものを附すべきであらう。物名はその学名あるものはこれを取ること、植物名彙の例の如きを便とする。否《しからざ》るものは英独名を取ること鉱物字彙の如くすべしや否や、此には商量の余地がある。索引は二書皆羅馬字の国語を以てしてあるが、彼は純《もつぱ》ら今言《きんげん》の和名に従ひ、此は所謂漢語が過半を占めてゐる。是は通用語の然らしむる所である。わたくしは此よりして外、漢字の索引を以て闕くべからざるものとする。

     その二百九十六

 此年丙辰に狩谷氏では三|平懐之《ぺいくわいし》が歿した。七月二十日に五十三歳で歿したのである。継嗣は三右衛門|矩之《くし》である。矩之は本斎藤氏で、父を権右衛門と云つた。其質店三河屋は当時谷中善光寺坂下にあつたが、今猶本郷一丁目に存続してゐる。権右衛門に三子があつた。長は源之助、仲は三右衛門矩之、季は家を嗣いだ権右衛門である。
 矩之の兄源之助は、清元延寿太夫である。延寿太夫は初代が文政八年中村座よりの帰途《かへりみち》に、乗物町和国橋で人に殺された岡本吉五郎、二代が吉五郎の子|巳三次郎《みさじらう》、後に所謂名人太兵衛、三代が安政四年に地震に遭つて死んだ町田繁次郎、四代が矩之の兄源之助である。「舌切心中」の為損じをしたので名高く、明治三十七年に至るまで生存し、七十二歳の寿を享けた。今の延寿太夫は五代目である。丙辰には源之助二十四歳、矩之十四歳であつた。
 岡西氏では七月に玄亭の父栄玄が歿し、十一月に玄亭が歿した。継嗣は十八歳の養玄であつた。後に伊沢氏の初の女婿《ぢよせい》全安と柏《かえ》との間に生れた女《むすめ》梅を娶《めと》るのは此養玄である。
 此年棠軒二十三、妻柏二十二、女長三つ、良《よし》一つ、全安の女梅七つ、柏軒並妻俊四十七、妾春三十二、男鉄三郎八つ、女洲十六、国十三、安五つ、琴二つ、榛軒未亡人志保五十七であつた。
 安政四年は蘭軒歿後第二十八年である。此年伊沢氏の主家に代替があつた。
 阿部伊勢守正弘は三四月の交《かう》病に罹り、五月以後には時々《じゞ》登城せぬ日があり、閏《じゆん》五月九日より竜口《たつのくち》用邸に引き籠り、六月十七日午下刻に瞑した。享年三十九歳である。正弘は盛年にして老中の首席に居り、独り外交の難局に当り、後年勝安芳をして、「開国首唱の功も亦此人に帰せざるを得ず」と云はしめた。攘夷論の猶盛であつた当時、毀誉の区々《まち/\》であつたのは怪むに足らない。
 正弘の病は終始柏軒が単独にこれが治療に任じた。正弘は柏軒に信頼して疑はず、柏軒も亦身命を賭して其|責《せめ》を竭《つく》したのである。
 越前国福井の城主松平越前守|慶永《よしなが》は匙医|半井《なからゐ》仲庵をして正弘の病を問はしめ、蘭医方を用ゐしめようとした。福井藩用人中根|靱負《ゆきえ》の記にかう云つてある。「蘭家の御薬勧めまゐらすべきよし(中略)伊勢
前へ 次へ
全284ページ中226ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング