て、喬木を折り家屋塀墻を損ふ。又海嘯により逆浪漲りて大小の船を覆し或は岸に打上、石垣を損じ、洪波陸へ溢漲して家屋を傷ふ。」半蔵門|渡櫓《わたりやぐら》、築地西本願寺本堂、浅草蔵前閻魔堂、本所|霊山寺《りやうせんじ》本堂が壊《くづ》れ、永代橋、大川橋が損じた。
蘭軒医談の始て刻せられたのは此月である。森枳園の序にかう云つてある。「余以天保間。遊于相陽。(中略。)偶探書笈。得幼時侍蘭軒先生所筆記医談若干条。遂録成冊子。未遑校字。抛在架中。近日有頻請伝写者。因訂訛芟複。活字刷印以貽之。併示同人云。安政丙辰仲秋。書於江戸城北駒米里華佗巷之温知薬室。福山森立之。」署名の傍《かたはら》に「立之」「竹窓主人」の二印がある。枳園は一に竹窓とも号したと見える。駒米里《くべいり》は駒込、華佗巷《くわだこう》は片町であらう。時に枳園五十歳であつた。蘭軒医談一巻は「伊沢氏酌源堂図書記」の印ある刊本と、「森氏開万冊府之記」の印ある稿本と、並に皆富士川氏が蔵してゐる。
その二百九十四
わたくしは安政丙辰に蘭軒医談の校刻せられたことを記した。此書は所謂随筆の体を成してゐて、所載の物類の範囲は頗る博大である。わたくしは読過の際に一事の目を惹くに会した。それは楸《しう》は何の木なるかと云ふ問題である。
楸は詩人慣用の字である。「松楸」の語の如きは、彼「松栢」の語と同じく、諸家の集に累見してゐる。然るにわたくしは楸の何の木なるかを審《つまびらか》にしない。
蘭軒医談に楸字の異説がある。しかしそれがわたくしの目を惹いたには自ら来由がある。
数年前にわたくしは亀田|鵬斎《ぼうさい》の書幅を獲た。鵬斎は韓昌黎の詩を書してゐる。「幾歳生成為大樹。一朝纏繞困長藤。誰人与脱青蘿※[#「巾+皮」、第3水準1−84−9]。看吐高花万万層。」わたくしはこれを壁上に掲ぐること数日間であつた。此詩はわたくしの未知の詩であつた。大樹の何の木なるかも亦わたくしの未だ知らざる所であつた。
しかし此詩はわたくしに奇なる感を作《おこ》さしめた。それは大樹は唐朝にして長藤は宦官だと謂《おも》つたのである。平生わたくしは詩を読んで強ひて寓意を尋窮することを好まない。それゆゑ三百篇の註を始として、杜詩の註等に至つても、註家の言《こと》に附会の痕あるに逢ふ毎に、わたくしは数《しば/″\》巻を抛つて読むことを廃めた。独り韓の此詩はわたくしをして唐代宦官の禍を思はしめて已まなかつた。
わたくしは終に此詩を諳記した。しかし未だ謂ふ所の何の木なるを知らなかつた。一日《あるひ》わたくしは、ふとこれを知らむことを欲して、二三の類書を閲《けみ》した。そして五|車韻瑞《しやゐんずゐ》中に於て此詩を見た。憾むらくは引く所は題に及ばぬので、わたくしは遂に大樹の何の木なるを知ることが出来なかつた。
わたくしは人に昌黎集を借りて閲した。巻九《けんのく》に「楸樹」の詩三首があつて、鵬斎の書する所は其一であつた。わたくしは進んで楸の何の木なるかを討《たづ》ねた。
此問題は頗《すこぶる》困難である。説文に拠れば楸は梓《し》である。爾雅を検すれば、※[#「稻」の「禾」に代えて「木」、8巻−184−下−2]《たう》、※[#「木+臾」、8巻−184−下−2]《ゆ》、※[#「木+懷のつくり」、8巻−184−下−2]《くわい》、槐《くわい》、榎《か》、楸《しう》、椅《い》、梓《し》等が皆相類したものらしく、此数者は専門家でなくては辨識し難い。
今蘭軒医談を閲するに、「楸はあかめがしはなり」と云つてある。そして辞書には古のあづさが即今のあかめがしはだと云つてゐる。わたくしは此に至つて稍答解の端緒を得たるが如き思をなした。それは「楸、古言あづさ、今言あかめがしは」となるからである。
しかし自然の植物が果して此の如くであらうか。又若し此の如くならば、梓は何の木であらうか。わたくしは植物学の書に就いて捜索した。一、楸はカタルパ、ブンゲイである。二、あづさはカタルパ、ケンプフエリ、きささげである。(以上紫※[#「くさかんむり/威」、第3水準1−91−11]科。)三、あかめがしははマルロツス、ヤポニクスである。(大戟科。)是に於て切角の発明が四花八裂をなしてしまつた。そして梓の何の木なるかは容易に検出せられなかつた。畢竟自然学上の問題は机上に於て解決せらるべきものではない。
是に於てわたくしは去つて牧野富太郎さんを敲いた。
その二百九十五
わたくしは蘭軒医談楸字の説より発足してラビリントスの裏《うち》に入り、身を脱することを得ざるに至り、救を牧野氏に求めた。幸に牧野氏はわたくしを教ふる労を慳《をし》まなかつた。
「一、楸は本草家が尋常きささげとしてゐる。カタルパ属の木である。博物館内にある。」わたく
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