年である。四月に丸山の阿部邸を発して五月に福山に著いた。
 此年棠軒二十一、妻柏二十、女長一つ、全安の女梅五つ、柏軒並妻俊四十五、妾春三十、鉄三郎六つ、洲十四、国十一、安三つであつた。蘭軒の遺女にして井戸氏に嫁した長は四十一、榛軒の未亡人志保は五十五であつた。
 安政二年は蘭軒歿後第二十六年である。二月十七日に中橋の家に柏軒の第五女|琴《こと》が生れた。佐藤氏春の出である。柏軒の女《ぢよ》は洲、国、北、安、琴の順序に生れて、北に至るまでは正室狩谷氏俊の出、安より以下が春の出である。
 十月二日は江戸の大地震の日である。棠軒公私略に「十月二日夜、東都大地震、四面火起」と記してある。「四面火起」とは丸山の阿部邸にあつて記したものである。阿部正弘は竜口《たつのくち》用邸にゐた。屋舎が倒れて正弘の夫人松平氏|謐子《しづこ》の侍女七人はこれに死した。正弘夫妻は幸に恙なきことを得て、正弘は直に登城した。当夜第一の登城者であつた。是は正弘が平素紋附の寝衣《しんい》を用ゐてゐたので、重臣某の曾て正弘より賜つた継上下《つぎかみしも》を捧げたのを著て、迅速に支度を整ふることを得たからである。正弘は用邸より丸山邸内の誠之館に遷つた。此誠之館は二年前癸丑の歳に落成した学校である。福山にある同名の藩学は江戸に遅るゝこと一年、甲寅の歳に落成した。
 中橋の柏軒が家では前月より妻俊が病み臥してゐた。二日は講書のために人々の集《つど》ふべき夜であつた。女《むすめ》安の風邪に侵されてゐたのを、早く寝させむために、「森の祖母君」を附けて二階へ遣つた。地震は此時起つたのである。森の祖母君《おほばぎみ》は俊の病を看護しに来てゐた人だと云ふ。森全応恭忠《もりぜんおうきようちゆう》の妻、枳園の母ではなからうか。
 地震の起つた時「丸山の姉君」が傍にゐたと俊は云ふ。按ずるに志保は夫を喪つた後、柏軒の家に寓してゐたと見える。
 俊は「童一人」を率《ゐ》て轎《かご》に乗り、湯島の狩谷|懐之《くわいし》方へ避難したさうである。按ずるに柏軒と妾《せふ》春とは中橋に留まり、春は安、琴の二女を保護してゐたであらう。童《わらは》は鉄三郎である。森の祖母君は徒歩して俊の轎の後《しりへ》に従つた。

     その二百八十八

 わたくしは安政乙卯の歳の地震を叙して、当時の柏軒が中橋の家の事に及んだ。此条は柏軒の妻狩谷氏俊の記に拠つたものである。良子刀自所蔵の俊が遺文中首尾|略《ほゞ》全《まつた》きものは、此記を除く外、遊記二篇、小説二篇があるのみである。わたくしは今地震の記の全文を此に写すこととする。是は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が家女に生ませた才女のかたみである。
「長月の半よりいたう悩みて、生くべうもあらぬ程なりしに、神無月になりては、しばしおこたりざまになりぬ。されど枕|擡《もた》ぐることも懶くて、湯なども吸呑《すひのみ》てふ物より臥しながら飲みて、厠に往かむにも、人の肩に掛かりて、一人には背を押さへられつつ、虫などのはふさまして行きぬ。」
「夕《ゆふ》つかた娘の風の心地に、いと寒しと云へば、楼《たかどの》へ往きて衾《ふすま》被《かづ》きて寝よと云ひしかど、一人往かむはさうざうし、誰にまれ共に往きてよと云ふ。森の祖母君《おほばぎみ》此頃わが悩《なやみ》みとらむとて、しばし留まりゐ給ひしが、今宵講釈のあれば、夜も更けなむ、われこそ共に往きて寝めとて、楼に登り給ひぬ。」
「亥《ゐ》過る比《ころ》、天地《あめつち》も砕けぬばかりのおどろ/\しき音して地|震《ふる》ふに、枕上《まくらがみ》の燈火《ともしび》倒れやせむと心許なく、臥したるままにやをら手を伸べつつ押さへぬ。されど油皿はとくゆり落されて、押さへたる我手に当り、畳の上に落ち、あたりへ油散りたり。」
「此時女子一人走り来て、心たしかに持ち給へ、まざいらく/\と云ひつつ我上に倒れ臥しぬれば、あな苦し、そこ退きね、疾く/\と云へど、えも起き上らでゐたり。そこへ又一人肥えふとりたる女の走り来て、阿弥陀仏《あみだほとけ》の御名を唱へつつ、又倒れかかりぬれば、いよゝ重りて苦しさ言はむかたなし。されど戸障子《とさうじ》のはづるる音にや、あまりにおそろしき音すれば、物も覚えず。今の間に家も崩れ、有限の人こゝにて死ぬらむかと、目を閉ぢつつ、大慈大悲の観世音|菩薩《ぼさち》と声高う唱へぬ。今を限の命なめり、かくて世も尽きぬらむとおもひゐたり。」
「そこへ誰にかあらむ火|点《とも》して来ぬるに、あたりを見やれば、おのれは落ちたる行燈《あんどう》の油皿を何のためにか、しかと握りたり。その上に若き女どものいみじう肥えたるが二人まで倒れかゝりてゐたり。さて人ごゝち附きて見れば、家のしりへの方に、紺屋の物干す料なる広く明きたる地のあれば、そこ
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