をさして我先にと往くなり。我にも疾く往きね、揺返《ゆりかへ》しと云ふこともあれば危し、疾く/\とそゝのかせど、風いたう吹きて寒げなれば、悩める身の風に当りて悩まさりて死なむも、こゝにて押し潰されむも同じ命なり、動くことも懶ければ、此儘にてあらせてよと打詫ぶ。」
「そがうちに火出来ぬと聞きて、そはいづくのあたりならむと問へば、かしここゝ三十六|所《ところ》もあらむと云ふに胸つぶれぬ。とてもかくても命の尽る期なるべしと覚悟してぞゐたりける。」
「家あるじ、病者《ばうざ》の心地や悪しからむ、振出《ふりだ》してふ薬飲ませばやと、常に薬《くすり》合《あは》するかたに往くに、こはいかに棚落ちて箱どもの薬ちり/″\になり、百味箪笥といふものさへ倒れぬれば、常に病者のもとへ持行く薬箱とうでて合するもめづらし。」
「童子《わらべこ》どもも人に負はれて、しりへなる広き方へ往きぬ。火はいよゝ烈しくなりもてゆきて、東も西も一つらに空赤くなりて、火の子のちりぼふさま梨地といふもののやうにぞ見ゆる。いよゝ身動さむともえ思はずなりて、衾《ふすま》かづきて臥しゐたり。傍《かたはら》には森氏の祖母君、丸山の姉君います。家《や》のうちには猶老いたるもの穉《をさな》きものあまたあり。火近うなりて物の焼くる音おそろしきに、大路も人多くなりて所狭《ところせ》く、ようせずば過《あやまち》もありぬべし、疾く逃ぐるこそよかなれと人々云ふ。」
「さらばとてやう/\床の内よりはひ出でて駕籠に乗る。童《わらは》一人共に乗りぬ。先づ門《かど》を出づるに、物の燃ゆる音のおそろしければ、あたりをばよくも見やらず。広小路に出でぬ。ふと駕籠の窓より見出だすに、赤き火黒き烟入り乱れて、物音すさまじければ、心もそらになりて物も覚えでぞ行く。」

     その二百八十九

「大路《おほぢ》のさま静になりぬれば、例の窓より見やるに、こゝは道行く人はなくて、男《をとこ》女《をみな》おのれ/\が家居の前に畳敷きかさね、調度めくもの夜の物など見上ぐるまでに積みあげ、そが中にこぞりゐて、蝋燭など点《とも》したり。そが傍《かたはら》に同じさましたるが火桶に火などおこしつゝ、隣れる人酒の出来《いでき》たるにまゐらずやなど云ふ。今は走りありきて火消さむとはかるものなくて、おのれ/\がゐる所守りてのみあるなるべし。されば街《ちまた》いと静にて、穉《をさな》きもの老いたるものゝ歩むに、心もとなきことはあらじと、少しは心おちゐぬ。」
「暫くして大路にいみじき雨の降るらむやうに、さわ/\と水音立つるは何ならむと、例の窓より見やるに、家ごとに火の事の用にと湛へ置きたる水桶倒れ、水の溢るゝなり。」
「駕籠舁くものの云ふ。日比《ひごろ》悩み給へるに、かく揺りもて行けば、いかに苦しと思召すらむ。強ひてねりもて行かむとおもへど、しづ心なくて、いつしか足疾くなりぬと云ふ。いな、心地は此日比よりもさわやきぬ。心遣なせそ。疾く走り行きて、とみに帰りね。家の焼け失せなむも心もとなし。疾く帰りて調度持出してよとそゝのかし走らす。駕籠舁くもの心えて急ぎ行けば、身はいたう揺らるれども、日比には似ず、胸のいたきことさへに忘れゐたり。」
「又こゝはいかならむとさし覗き見るに、空は皆一つらに赤うなり、右左の小路《こうぢ》はいづこも/\火燃ゆるさま、目のあたりに見えておそろし。かかれば老いたる御方のいかに心もとなく歩み苦しうおぼすらむと見やるに、手拭被りつつ、脛《はぎ》あらはに端折りて、ささやかなるものを負ひつつ来給ふさま苦しげにもあらず、常の道歩み給ふさまなるがいと怜《うれ》し。」
「筋違《すぢかひ》の広き大路には、所狭《ところせ》きまで畳積みかさね、屏風|戸障子《とさうじ》などもておのがじゝ囲ひたり。中に衾《ふすま》かづきて臥したるは、わがごとき病者《ばうざ》ならむとおもへば、あはれ湯などあらば飲ませまほしとぞおもふ。こゝはしも火の見ゆることなければ、少しは心落ちゐぬ。」
「湯島なる故《ふる》さとに来て見れば、表なる塗籠《ぬりごめ》はいたう揺り崩され、屋根なりし瓦落ちつもり、壁の土と共に山の姿なせり。されば常に駕籠舁き入るゝ玄関めく方へ往かむこと難く、さりとてこゝにあるべきならねば、先づ案内《あない》をぞこふ。」
「従者《ずさ》出来て、こはよくぞ来ましゝ、此日比悩み給ふと聞きつるに、み心地はいかになど問ひつつ、駕籠の戸引きあけつ。さてをさなきもの危し、誰《た》ぞ抱き取りてよと云ふに、又一人出来て童《わらは》を抱《いだ》き取りぬ。さきなるが我手を取りて云ふ。かしここゝの崩れ損《そこな》はれて、歩み行くこと難き道となりたれば、わびしうぞおぼすらむ。家あるじは疾く庭のあなたなる茶の湯ものする囲に移りてぞおはする。いざこなたへとて、手を取りて扶け起し、
前へ 次へ
全284ページ中221ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング