つた。勿論滑稽は先づ隠して置いて後に顕した。落人も見るかやの歌の辺《あたり》は、真面目な著附で出た二人が真面目な科《しぐさ》をしてゐた。さて、詞《ことば》に色をや残すらむで、二人が抱き合ふと、そこへ山賊が大勢出る。うぬ等は猫間《ねこま》の落人だらう、ふざけた真似をしやがるなと云つて、二人の衣類を剥ぐ。わん平は剥身絞《むきみしぼり》の襦袢と鬱金《うこん》木綿の越中褌とになり、おだるは例の長襦袢一つになる。そしておだるはわざと後向になつて、黄色い斑を見せる。山賊はわん平を剥ぐ時、懐から出た白旗を取り上げ、こりやこれ猫間の白旗云々の白《せりふ》を言ふ。是が次の地雷太郎と弓之助とのだんまりの種になるのである。此場のおだるわん平が剥がれる処は大受であつた。」
その二百八十六
塩田氏は此年甲寅に小野|令図《れいと》の家に催された茶番の事を語ること前記の如くであつた。茶番が此の如く当時の士人の家に行はれたのは、文明史上の事実である。何れの国何れの世にも、民間藝術はある。茶番と称する擬劇も亦其一である。わたくしはその由つて来る所が知りたい。
わたくしは此に民間藝術史上より茶番を概説する余地を有せない。しかしわたくしは少くも茶番を小野の家に演じた人々が、いかにして其技を伝へたかと云ふことを問ひたい。
わたくしは塩田氏に聞いた。当時吉原の幇間に鳥羽屋|喜三次《きさんじ》と云ふものがあつて、滑稽踊と茶番とに長じてゐた。喜三次は其技を天野藤兵衛と云ふものに伝へた。天野は身分が幕府の同心で、常に狭斜に往来するものであつた。柏軒は屡々此藤兵衛を其家に招いて、酒間に技を演ぜしめた。「野呂松《のろま》の切破《きりやぶり》」、「山王祭」、「三人|生酔《なまゑひ》」、「女湯覗《をんなゆのぞき》」等はその好んで演ずる所であつた。矢島|優善《やすよし》、塩田|良三《りやうさん》等の茶番は藤兵衛より出でたのださうである。柏軒の家とは中橋の家であらう。柏軒の丸山の家を離れて中橋に住んだ年月日は記載せられてゐぬが、わたくしは既に云つた如く、仮に天保丙申の歳としてゐるのである。
茶番にも文献がある。その詳《つまびらか》なることはわたくしの知らざる所であるが、或は思ふに茶番の書の如きは、概して多く存してをらぬのではなからうか。わたくしは又塩田氏に聞いた。当時本所に谷川|又斎《いうさい》と云ふ医者があつた。又斎の子が亦斎《えきさい》で、家業を嫌ひ、篆刻を学び、後には所謂戯作者の群に投じ、雑書を著して自ら紫軒道人《しけんだうじん》と署した。此紫軒の著す所に「茶番頓智論」二巻があつて刊行せられた。書中には塩田良三の作も収められてゐた。其一は豊臣秀頼が石清水八幡宮に詣でた時、明智光秀の女《ぢよ》がこれを刺さうとすると云ふ筋の作であつたさうである。
わたくしは小野の家の茶番が、河原崎座の吾嬬下《あづまくだり》五十三|次《つぎ》興行と同時であつたことを言つた。然らば茶番の時は即ち八月狂言の時で、八月狂言の時は即ちスタアリングの率ゐた英艦隊の長崎に来舶してゐた時である。人或はその佚楽戯嬉《いつらくきき》の時にあらざるを思つて、茶番の彼人々の間に催されたのを怪むであらう。しかしそれは民衆心理を解せざるものである。上《かみ》に病弱なる将軍家定を戴き、外《ほか》よりは列強の来り薄《せま》るに会しても、府城の下《もと》に遊廓劇場の賑つたことは平日の如く、士庶の家に飲讌等の行はれたことも亦平日の如くであつただらう。近く我国は支那と戦ひ露西亜と戦つたが、其間民衆は戯嬉を忘れなかつた。啻《たゞ》に然るのみならず、出征軍陣営中の演劇は到る処に盛であつた。わたくしは従征途上に暫く広島に駐《とゞ》まつたことがある。其時人々が争つて厳島に遊んだ。「生きて還るかどうか知れないから、厳島でも観て置かう」と云つたのである。わたくしは同行を辞して、「厳島を観て死ぬるも、観ずに死ぬるも、大した違は無いやうだ」と云つて、人々に嗤《わら》はれた。
その二百八十七
此年甲寅に森枳園が躋寿館の講師にせられた。枳園は是より先嘉永紀元戊申に阿部侯に召還せられ、其年館の校正方になつてゐた。館にあること七年にして講師の命を拝したのである。
枳園の妻勝は夫の受けた沙汰書を持つて丸山の伊沢氏を訪ひ、これを榛軒の位牌の前に置いて泣いた。夫の今日あるは亡き榛軒の賜《たまもの》だとおもつたからである。榛軒の歿した時、棠軒は父の遺物として、両掛入薬籠《りやうがけいれやくろう》と雨具一式とを枳園に贈つたさうである。
此年渋江氏では抽斎の長男|恒善《つねよし》が歿した。榛軒の門人録には「渋江道陸」として載せてある。矢島|優善《やすよし》の兄である。
門田朴斎《もんでんぼくさい》の江戸より福山に帰つたのも亦此
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