と云つてある。樵山魯助は文政四年生で、榛軒の歿した壬子に三十二歳になつてゐたことは確である。父※[#「くさかんむり/衡」、第3水準1−91−39]園は慊堂の親友である。
 此書には二箇所に「森氏」の篆印がある。枳園の家の印記である。又第一|頁《けつ》の欄外に「万延元庚申冬月一校了約之※[#「木+駸のつくり」、第4水準2−14−83]遅」と書してある。「※[#「木+駸のつくり」、第4水準2−14−83]遅」は養真約之《やうしんやくし》の字《あざな》か。わたくしは嘗て森氏旧蔵の揚子方言に、「嘉永壬子無射初四夜聿脩塾燈下書、句読一過了、源約之辛※[#「こざとへん+是」、第3水準1−93−60]志」と書したのを見たことがある。「※[#「木+駸のつくり」、第4水準2−14−83]遅」又「辛※[#「こざとへん+是」、第3水準1−93−60]」にも作つたものか。猶考ふべきである。按ずるに約之が方言を校したのは偶《たま/\》此年壬子で、約之は十八歳であつた。
 わたくしは以上の記を留めて置いて、此書を富士川氏に返すこととする。
 此年嘉永壬子には未亡人志保五十三、棠軒良安十九、妻柏十八、柏軒並妻俊四十三、妾春二十八、鉄三郎四つ、女洲十二、国九つ、安一つ、蘭軒の遺女長三十九、全安の女梅三つであつた。

     その二百八十二

 嘉永六年は蘭軒歿後第二十四年である。正月十三日に棠軒良安は家督相続をした。「跡式無相違大御目付触流被仰附」と、棠軒公私略に云つてある。
 二月二十二日棠軒は亡父の遺した阿部家の紋服を著ることを稟請した。公私略に載する「口上之覚」はかうである。「亡父一安拝領仕候御紋附類私著用仕度奉願上候以上。」稟請は二十七日に裁可せられた。
 三月二十六日に里開《さとびらき》をした。公私略に「里開、松川町実家へ行」と云つてある。田中|淳昌《じゆんしやう》の未亡人杉田氏八百の許へ往つたのである。
 四月六日に棠軒の生母杉田氏が歿した。公私略にかう云つてある。「六日午後実母公得卒中風、昏睡不醒、吐濁唾煤色。夕刻遂に御卒去被遊候。」八日に喪が発せられた。「表発は八日差出す。」
 五月に棠軒は阿部正弘の侍医となつた。是は歴世略伝に拠るのである。想ふに棠軒当時の身分は表医師で、此時奥詰などの命を拝したものか。公私略には記載を闕いてゐる。
 当時阿部伊勢守正弘は老中に列せられてより既に十一年を経てゐた。勝手掛として幕府の財政を行ふこと十年、海岸防禦事務取扱、後の所謂海防掛として外交の衝に当ること九年にして、齢《よはひ》は三十五歳であつた。
 前年壬子の暮に正弘は封一万石を加へられ、此月備後及備中に於て込高《こみだか》共一万千七百六十六石一斗二合七勺九秒を給せられた。公私略に「五月三日御加増御祝金七両頂戴被仰附」と云ふものが即是である。
 米国の少将ペリの率た艦隊は前年壬子十月十三日(一八五二年十一月二十四日)に抜錨し、前月十九日(一八五三年五月二十六日)に琉球那覇港に著し、此月二十六日(七月二日)に那覇港を発して浦賀に向つた。その浦賀に入つたのは翌月三日(七月八日)である。棠軒が侍医の命を拝したのは、米艦隊の浦賀に入る前月である。
 此月五月十四日に棠軒は妻《さい》柏《かえ》、柏軒の妻|俊《しゆん》、狩谷|懐之《くわいし》、小野|富穀《ふこく》等と向島に遊んだらしい。わたくしは良子刀自の蔵する狩谷氏俊の遺稿に拠つて言ふのである。遺稿は月日が書してあつて、年が書してない。しかし柏の妊娠の事が言つてあるので、此年なることが知られる。胎内の子は次年甲寅の初に生るべき棠軒の女《ぢよ》長《ちやう》である。狩谷懐之を「せうとの君」と書してある。次月六月十日には江戸湾に米艦の砲声が轟き、江戸市中は早鐘を打つとも知らずに、一行は向島に遊んだのである。
 九月十三日に棠軒は山田昌栄の門人となつた。公私略に「山田昌栄先生へ入門」と云つてある。昌栄は蘭門の椿庭業広《ちんていなりひろ》で、家塾は本郷壱岐坂上にあつた。
 棠軒は蘭学首唱者の家に育つた杉田氏八百の生む所でありながら、当時新に師を択ぶに洋医に就かずして椿庭に従つた。しかしその伊沢氏の養嗣子たるを思へば、是も亦怪むに足らない。叔父《しゆくふ》柏軒の洋医方に対する態度は下《しも》に見えてゐる。此条と参照すべきである。
 且棠軒の主正弘は四年前に洋医方に対する態度を明にしてゐる。「近来蘭医増加致し、世上之を信用する者多く之ある由相聞え候。右は風土も違候事に付、御医師中は蘭方相用候儀御制禁仰出され候間、其意を得、堅く相守るべき事。」是は己酉五月に令したものである。「横浜開港五十年史」はこれを引いて正弘を陋《ろう》としてゐるが、渡辺修次郎さんは「川路聖謨之生涯」を引いてこれを反駁した。「聖謨は西洋の科学術藝を歎賞したれ
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