。それなら御安心下さいまし。あなたが棄てろと仰やいましたから、あの榎の下の五|味溜《みため》に棄てたには相違ございません。しかしあの綺麗な肉を五味の中に棄てるのが惜しかつたので、※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]冬《ふき》の葉を沢山取つて下に鋪いて、其上に肉をそつと置きました。そして肉の上にも※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]冬の葉を沢山載せて置きました。」
榛軒は傍《かたはら》より聞いて大いに喜んだ。そして安石に取つて来ることを命じた。既に夜に入つてゐたので、安石は提燈を点けて往つて取つて来た。肉は毫も汚れてゐなかつた。
榛軒は妻の忌むことを知つてゐたので、庭前に涼炉《こんろ》を焚いて肉を烹《に》た。そして塾生と共に飽くまで啖《くら》つた。
榛軒は鰻の蒲焼を嗜んだ。渋江保さんは母山内氏|五百《いほ》の語るを聞いた。榛軒は午餐若しくは晩餐のために抽斎の家に立ち寄ることがあつた。さう云ふ時には未だ五百の姿を見ざるに、早く大声《たいせい》に呼ぶを例とした。「又御厄介になります。鰻はあつらへて置きました。もう一軒往つて来ます。どうぞお粥は米から願ひます。」五百に炊かせた粥に蒲焼を添へて食ふのが、榛軒の適とする所であつた。酒は或は飲み或は飲まなかつた。
此の如き時、榛軒は抽斎の読書を碍《さまた》ぐることを欲せなかつたので、五百をして傍《かたはら》にあらしめ、抽斎をして書斎に退かしめた。
わたくしは此条を終るに臨んで、烟草の事を附記する。
榛軒は喫烟した。そして常に真鍮の烟管十本|許《きよ》を蔵してゐて、其一を携へて病家を訪うた。人が其故を問ふと、榛軒はかう云つた。「銀烟管などは失ふまいと思ふと気骨が折れる。真鍮にはそれが無い。縦《よ》し何処かに置き遺《わす》れて取りに往くにしても、無造作に問ふことが出来る。問はれたものも亦、無い時無いと云ふに気兼をしなくて済む。」
榛軒の逸事は此に終る。
その二百八十一
わたくしは此に榛軒の記を終へて、借りてゐた所の榛軒詩存を富士川游さんに返さうとおもふ。此書は清川安策の自筆本で、序を併せて半紙二十五|頁《けつ》より成つてゐる。収むる所の詩は五古一首、七古一首、五律十五首、七律十二首、七絶百十八首、計百四十七首である。
序は編録者安策の撰む所で、巻初の一頁を填《うづ》めてゐる。わたくしは此書の刊行せらるべきシヤンスは、※[#「くさかんむり/姦」、8巻−159−上−3]斎《かんさい》詩集に比して更に小なるを知るが故に、今序の全文を抄出する。
「先師榛軒先生。刀圭之暇。毎遇心愉而意会。輒発之声詩。其所吟詠頗多。而未曾留稿也。孫在塾日。或得之侍坐之傾聴。或得之壁上之漫題。或得之扇頭紙尾。或得之同門諸子之伝誦。随得随録。無復次第。積年之久。得百有余首。今茲安政戊午十一月十六日。実当先生七回忌辰矣。追憶往事。宛然在目。殆不勝懐旧之歎也。乃浄写為一冊。私名曰榛軒詩存。雖未足為全豹。亦足以窺先生風騒之一斑也已。嗚呼先生不欲存。而孫存之。縦令得罪于地下。亦所不敢辞也。其巻末存余紙者。以備続得云。安政五年歳次戊午仲冬之月。清川孫誌。」
文中に「孫」と称し、末に「清川孫誌」と署してある。清川安策、名は孫《そん》であつた。
「先生不欲存。而孫存之。」門人の師の書に序する文には、多くこれに類する語を見る。しかし其語は他書にあつては矯飾に過ぎぬが、此榛軒詩存にあつては真実である。
所謂「巻末存余紙」の余紙《よし》は九|頁《けつ》あつて、別に清川の序の後に空白六頁がある。恐くは諸友の題言を求めむと欲したものであらう。紙は医心方を写さむがために特製した烏糸欄紙《うしらんし》である。
「随得随録。無復次第。」是も亦往々他書の序跋中に見ることのある語である。しかし書を著すものは故《ことさら》に審美学者の所謂無秩序中の秩序を求め、参差《さんし》錯落の趣を成して置きながら、這般《しやはん》の語を以て人を欺くのである。惟《たゞ》清川の此八字は実録である。巻首の詩は嘉永四年辛亥元旦の作、巻尾の詩は天保元年庚寅三月|晦《くわい》の作で、二者の中間にも亦絶て安排の痕を見ない。その年月を知るべきものは、百四十七首中六十二首あるのみである。
此書には詩引に二十一人の名が見えてゐて、其過半は氏名を明にすることが出来る。多くは蘭門若くは榛門の子弟である。其他儒に渡辺|樵山《せうざん》があり、歌人に木村|定良《さだよし》がある。わたくしは上《かみ》に樵山の事を記した後、其父の誰なると其生誕の何年なるとを知ることを得た。慊堂《かうだう》日歴文政六年の下《もと》に渡辺|※[#「くさかんむり/衡」、第3水準1−91−39]園《かうゑん》の二子を挙げて、「魯助三歳、百助一歳」
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