《わづか》に悟つて徐《しづか》に涎衣を解いて懐にし、恬《てん》たる面目があつた。是が二つである。
榛軒は晩餐後市中を漫歩するを例とした。其時往々骨董店の前に歩を駐め、器玩《きぐわん》の意に投ずるものあれば購うて還つた。
榛軒は此の如き物を買ふに、その用に中《あた》ると否とを問はず、又物の大小を問はなかつた。さて或は携へ帰り、或は搬し至らしめた後、放置して顧みない。時に出して門人等に与へることがある。
門人等は拝謝して受ける。しかし受けた後に用途に窮することが数《しば/″\》である。
一日《あるひ》門人某は受けた物の処置に窮した。わたくしはその何の器《うつは》であつたかを知らぬが、定て甚だ大きかつただらうと推する。又某の名を知らぬが、定て率直な人であつただらうと推する。某は榛軒に問うたさうである。「此間先生に戴いた物は、どうも内ではどうにもいたしやうがございません。先生には済みませんが、あれは棄ててしまつても宜しうございませうか。」
榛軒は恬として答へた。「さうか。いらなけりやあ棄てるが好い。」是が三つである。わたくしの以て坦率となす所のものは概《おほむね》此類である。
その二百七十九
わたくしは榛軒の逸事を書き続ぐ。そして今此に榛軒の植物を愛した事を語らうとおもふ。
榛軒が蘭軒遺愛の草木を保護するに意を用ゐたことは言ふまでもない。彼吉野桜を始として、梅があり、木犀があり、芭蕉があつた。某年の春阿部侯|正寧《まさやす》は使を遣はして吉野桜の一枝を乞うた。榛軒は命を奉ぜなかつた。そして使者と共に主に謁し、叩頭《こうとう》して罪を謝した。
榛軒の蓮《れん》を愛したことは、遺言を読んで知るべきである。丸山の地は池を穿ち水を貯ふるに宜しくないので、榛軒は大瓦盆《だいぐわぼん》数十に蓮を藝《う》ゑて愛翫した。平生用ゐた硯が蓮葉形のものであつたのも、又酒器に蓮を画かせて用ゐたのもこれがためである。
榛軒は書斎と客間とに插花《いけばな》を絶やさなかつた。本郷の花総《はなそう》と云ふものが隔日に截花《きりばな》を持つて来たのである。
榛軒は父の本草趣味を伝へ、森枳園等に勧奨せられて、多く薬草を栽培した。就中《なかんづく》人参は阿部侯の命を奉じて栽ゑたのである。
榛軒も亦枳園等と同じく、子弟を率《ゐ》て近郊へ採薬に出た。曾能子刀自は当時の一笑話を記憶してゐる。或日採薬の途上に甘酒売が道を同じうして行くに会うた。随行の少年輩が一人飲み二人飲み、遂に先を争つて群り飲むに至つた。行き行きて岐路に逢ふこと数《しば/″\》であつたが、甘酒売は別れ去らない。甘酒の釜は此|夥《むれ》の行厨《かうちゆう》の如くになつた。
榛軒は酒を売る漢子《をとこ》に問うた。「貴様は一体何処へ往くのだ。」
「へえ。つい此先の方へ参ります。」
榛軒は屡問うたが、漢子の答ふる所は旧に依つた。「へえ。つい此先の方へ参ります。」
同行数里にして甘酒売の別れ去つたのは、板橋駅附近であつた。そして其釜は既に空虚であつた。
次にわたくしは少しく榛軒の飲饌《いんぜん》の事を記さうとおもふ。採薬途上の甘酒は、恰も好し、トランシシヨンの用をなした。
榛軒は病家を訪ふ時、家を出づるに臨んで妻志保をして薄茶一碗を点せしめた。
榛軒は客を饗する時、毎《つね》に上原全八郎を呼んで調理せしめた。上原は阿部家の料理人である。膾《くわい》を作るにも箸を以てした人である。渋江保さんの語るを聞けば、抽斎は客を饗する時、毎に料理店百|川《せん》の安と云ふ男を雇つたさうである。彼は貴族的で、此は平民的であつた。
飲饌の事は未だ尽きない。わたくしは曾能子刀自に豚料理の話を聞き、又保さんに蒲焼の話を聞いた。それは下《しも》に略記するが如くである。
その二百八十
わたくしは榛軒|軼事《いつじ》中飲饌の事を記して其半に至つた。剰す所は豚料理の話があり、又鰻飯の話がある。
豚は当時食ふ人が少かつた。忌むものが多く、嗜《たし》むものが少いので、供給の乏しかつたことは想ひ遣られる。豚は珍羞《ちんしう》であつた。
一日《あるひ》薩摩屋敷の訳官能勢甚十郎と云ふものが榛軒に豚を贈つた。榛軒は家にゐなかつた。妻志保は豚を忌む多数者の一人であつたので、直ちに飯田安石にこれを棄つることを命じた。安石は豚肉《とんにく》を持つて出た。
榛軒は家に帰つてこれを聞き、珍羞を失つたことを惜んだ。榛軒は豚を嗜む少数者の一人であつたからである。
志保は己の処置の太早計《たいさうけい》であつたのを悔いて、安石に何処へ棄てたかと問うた。
安石は反問した。「若し先生が召し上がるのであつたのではございませんか。」
「さうなのですよ。それで何処へお棄なすつたかとお尋するのです。」
「さうですか
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