美を極めたもので、懐之はこれを伊沢氏にあづけて置いた。安石は倉皇これを佩びて馳せ去つた。
此夕採薬の一行中に加はつた伊沢の塾生は皆還つたに、独り安石が帰らなかつた。榛軒は木刀の事を聞いて大いに痛心した。当時の制度は、木刀を佩びて途に死するものは、骸《かばね》を非人に交付することになつてゐたからである。
榛軒は人を四方に派して捜索せしめた。そして終に板橋駅の妓楼に於て安石を獲た。
坂上玄丈《さかのうへげんぢやう》も亦榛門の一人で、門人録中に載せてある。此人は弘化甲辰に渋江抽斎と共に躋寿館講師に任ぜられ又これと共に将軍家慶に謁した。武鑑には目見医師の下《もと》に其名が見えてゐて、扶持高住所等は未刻の儘になつてゐる。
榛軒の門人の事は此に終る。
次にわたくしは榛軒の資性に関して二三の追記を做さうとおもふ。榛軒は廉潔であつた。そして毎にかう云つた。「己は柏《かえ》のために金を遺して遣ることは出来ない。縦《よ》し出来るにしても、それは己の望む所では無い。金を貽《のこ》すのは兎角|殃《わざはひ》を貽すと同じ事になる。その代に己は子孫のために陰徳を積んで置く」と云つた。朋友の窮を拯《すく》ひ、貧人の病を療したのは此意より出でたのである。
或日榛軒は混外《こんげ》を金輪寺に訪うた帰途、道灌山に登つて月を観た。僕吉蔵と云ふものが随つてゐた。榛軒は吉蔵を顧みて云つた。「好い月ぢやないか。お前はどうおもふ。」吉蔵は答へて云つた。「へえ。さやうでございますね。ですが、檀那、此月で包か何かが道に落ちてゐるのが見附かつて、それを拾つて見ると、金の百両もはいつてゐたら、猶結構でございませう。」榛軒は聴いて不興気に黙つてゐた。さて翌日吉蔵に暇《いとま》を出した。家人が驚いて故を問うた時、榛軒は云つた。「月を観る間も利慾の念を忘れてゐられぬ男は、己の家には居かれない。」
吉蔵のこれを聞いた時の驚は更に甚だしかつた。是より先吉蔵は榛軒の愛する所の青磁の大花瓶を破《わ》つたことがある。其時は吉蔵が暇の出る覚悟をしてゐた。しかし榛軒は殆ど知らざるものの如くであつた。今忽ち暇の出たのは吉蔵のためには不可思議であつたのである。
榛軒は生涯著述することを欲せなかつた。是は父蘭軒の遺風を襲《つ》いだもので、弟柏軒も亦同じであつた。しかし蘭軒は猶詩文を嗜《たし》み、意を筆札に留めた。榛軒に至つては、偶《たま/\》詩を作つても稿を留めず、往々旧作を忘れて自ら踏襲した。書は榛柏の昆弟《こんてい》皆拙であつた。榛軒は少時少しく法帖を臨したが、幾《いくばく》ならぬに廃した。柏軒は未だ曾て臨書したことがなかつた。要するに二人は書を読んで中に養ふ所があつても、これを技に施して自ら足れりとし、敢て立言して後に貽さうとはしなかつたのである。
その二百七十八
わたくしは榛軒の資性を語つて、既に其寡欲と多く文事に意を用ゐざることとを挙げた。或は思ふに之《この》二者は並に皆求むる所少きに帰するもので、後者は声誉を求めざるの致す所であつたかも知れない。
わたくしは尚曾能子刀自に数事を聞いた。それは榛軒の一種特殊なる心理状態より出でたものらしい。わたくしは微《すこ》しくこれに名づくる所以に惑ふ。俚言の無頓著は此事を指すに宜しきが如くである。しかし此語には稍指す所の事の形式を取つて、其内容を遺す憾がある。已むことなくば坦率《たんそつ》とでも云はうか。
一日《あるひ》榛軒は阿部侯|正寧《まさやす》に侍してゐた。正寧は卒然昵近の少年を顧みて云つた。「良安は大ぶ髪が伸びてゐるやうだ。あれを剃つて遣れ」と云つた。少年は※[#「匚<也」、第3水準1−14−77]《はんざふ》、盥などを持ち出して、君前に於て剃刀を榛軒の頭《かうべ》に加へた。そして剃るに時を費すこと頗る多かつた。既にして剃り畢《をは》つたので、榛軒は退出した。
家に帰ると、家人が榛軒の頭を見て、皆失笑した。頭上の剃痕《ていこん》は断続してゐて、残す所の毛が文様をなし、三条の線《すぢ》と蝙蝠《かはほり》の形とが明に認められたからである。
家人は鏡を取り出して榛軒にわたした。榛軒は自ら照して又大いに笑つた。剃者の刀《たう》を行《や》るのが常に異なつてゐても、榛軒は毫も心附かずにゐたのである。是が一つである。
榛軒は庚寅の年に侯に扈随して福山に往つた時、午後屡轎中に仮寐《かび》した。そして涎が流れて襟を※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、8巻−154−下−11]《うるほ》した。榛軒は自ら白布を截つて涎衣《よだれかけ》を製し、轎《かご》に上《のぼ》る毎にこれを腮下《さいか》に懸けた。一日《あるひ》侯は急に榛軒を召した。榛軒は涎衣《ぜんい》を脱することを忘れて侯の前に進み出た。上下《しやうか》皆笑つた。榛軒|纔
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