志保三十七、長女|柏《かえ》二つ、柏軒二十七、妻|俊《しゆん》も同じく二十七、蘭軒の遺女長二十三、蘭軒の姉正宗院六十六であつた。
その二百四十四
天保八年は蘭軒歿後第八年である。此年の元旦は、阿部家に於ては、新主正弘の襲封初度の元旦であつた。正弘は江戸邸に於て家臣に謁を賜ふこと例の如くであつたが、其間に少しく例に異なるものがあつて、家臣の視聴を驚かした。
先例は藩主出でて席に就き、前列の重臣等の面《おもて》を見わたし、「めでたう」と一声呼ぶのであつた。然るに正弘は眸《まなじり》を放つて末班まで見わたし、「いづれもめでたう」と呼んだ。新に添加せられたのは、唯「いづれも」の一語のみであつた。しかし事々皆先例に遵《したが》ふ当時にあつては、此一語は能く藩士をして驚き且喜ばしめたさうである。想ふに榛軒も亦此挨拶を受けた一人であらう。是は松田道夫さんの語る所で、渡辺修二郎さんの「阿部正弘事蹟」に見えぬが故に書いて置く。伊勢守正弘は此時十九歳であつた。
伊沢氏には此年特に記すべき事が少い。已むことなくんば夏季榛軒等が両国に遊んだ話がある。是は昔の柏《かえ》、今の曾能子《そのこ》刀自が三歳の時の事として記憶してゐるのである。
川開の夕であつた。榛軒は友人門弟等を率《ゐ》て往いて遊んだ。其時門弟の一人が柏を負うて従つた。一行は茶屋|青柳《あをやぎ》に入つて藝者小房等を呼んで飲んだ。
一行の中に石川貞白がゐた。貞白は本姓磯野、名は元亮《もとあきら》、俗称勝五郎である。石川は家に帰つて妓の宴に侍したことを秘してゐた。
翌日伊沢の乳母が柏を伴つて石川に往つた。忽ち柏が云つた。「をぢさん、きのふは面白うございましたね。かつつあんの前だがおやそかね。」
何さんの前だが、おや、そかねと歌ふのは、当時柳橋の流行であつた。石川は頭を掻いて笑つた。「どうも内証事は出来ないものだ。」是が記事の一である。
榛軒の三女|久利《くり》は此年に生れたが、其月日を詳《つまびらか》にしない。久利は後|幾《いくばく》もなくして世を早うする女《むすめ》である。是が記事の二である。
渋江氏では此年抽斎が小島成斎に急就篇《きふじゆへん》を書せしめて上木した。抽斎の跋は七月に成つた。前漢書藝文志に徴するに、古の小学の書には、史※[#「竹かんむり/「擂」の「雨」に代えて「亞」から下の横棒を取り、縦棒二本は下までつなげたものをあてる」、「籀」の本字、8巻−91−上−7]篇《しちうへん》、蒼頡《さうきつ》七章、爰歴《ゑんれき》、博学七章、蒼頡篇、凡将篇《はんしやうへん》、急就篇、元尚篇、訓纂篇等があつた。急就篇は「元帝(漢)時、黄門令史游作」と云つてある。抽斎は古抄本に拠つて定本を作つたのである。其詳なることは経籍訪古志に見えてゐる。成斎は又「急就篇文字考」をも著した。わたくしは嘗て渋江氏板成斎正楷の急就篇を寓目したが、今其書が手許に無いから、跋文を引くことを得ない。此年抽斎三十三歳、成斎四十二歳であつた。
森氏では枳園が此年禄を失つて江戸を去つた。枳園は祖母、母、妻勝、三歳の子|養真約之《やうしんやくし》の四人を率《ゐ》て相模国に赴いた。
塩田氏では此年楊庵の子|良三《りやうさん》が生れた。父楊庵は三十一歳であつた。
此年榛軒三十四、妻志保三十八、女《ぢよ》柏三つ、女久利一つ、柏軒と妻俊とは二十八、蘭軒の女長二十四、蘭軒の姉正宗院六十七であつた。
その二百四十五
天保九年は蘭軒歿後第九年である。わたくしは先づ先霊名録に拠つて蘭軒の妻|益《ます》の姉の死を記せなくてはならない。飯田休庵の女《ぢよ》、杏庵の妻で、荏薇《じんび》問答の榛軒書中に所謂「叔母」である。此女子は四月四日に六十五歳で歿した。
次に偶然伝へられてゐる柏軒剃髪の日は、此年八月|朔《さく》であつた。良子刀自所蔵の文書中に一枚の詠草があつて、端に「天保九年八月朔日、信重祝髪之時所詠之歌」と題してある。披《ひら》いて観るに、前に旋頭歌一首がある。「初落髪而作歌一首。努釈迦之教学※[#「低のつくり」、第3水準1−86−47]曾流仁波非黒髪者速須佐之男命習※[#「低のつくり」、第3水準1−86−47]《ゆめさかのをしへまなびてそるにはあらずくろかみははやすさのをのみことならひて》。」後に三十一字の歌三首がある。「尚方術而作歌三首。久之乃業唐之吉人之言真奈※[#「田+比」、第3水準1−86−44]其幸者須倍迦美爾能武《くしのわざからのえひとのことまなびそのさきはひはすべかみにのむ》。九度肱折※[#「低のつくり」、第3水準1−86−47]毛弥進阿波礼久須利師之上登奈良末久《こゝのたびひぢををりてもいやすゝみあはれくすりしのかみとならまく》。迦羅久邇之薬之業者習雖底日宇固加奴倭魂《か
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