らくにのくすりのわざはならへどもそこひうごかぬやまとだましひ》。」末に「伊沢磐安」と署してある。
 伊沢氏に於ては父兄皆詩を賦したのに、独り柏軒は歌を詠じた。そして其歌は倭魂を詠じ、皇国を漢土の上に置き、仏教を排した作である。是は後に説くべき此人の敬神と併せ考ふべきである。
 次に渡辺氏の阿部正弘事蹟中此年の下《もと》に榛軒の名が見えてゐる。「天保九年九月朔日、(正弘)奏者番を命ぜらる。是を就職の始とす。(中略。)此頃頭瘡を病み、家居して療養すること四十余日に至る。一日医師等其臥床を他室に移さんとし、誤りて其頭に触る。正弘覚えず嗚呼痛しと叫ぶ。医師等驚き怖れて謂ふ。平常寛仁大度の主公と雖も、今日は必ず憤怒を発せらるゝならむと。退きて罪を待つ。正弘医長伊沢長安を召し曰く。予今誤りて痛と叫びしも、実は痛みたるにあらず。顧ふに彼必ず憂心あるべし。汝能く告げて安意せしむべしと。既にして又独語して曰く。平生自ら戒めて斯る事なからしめむとす。今日は事意外に出づ。図らず此の如き語を発したりと。伊沢等其の他人の過失を咎めずして自ら反省したるを見て、転感涙に咽びたり。」是に由つて観るに、榛軒長安の地位は衆医の上にあつたらしい。
 森氏で枳園が祖母を浦賀に失つたのは此年の事かとおもはれる。其祖母の遺骨の事に関して一条の奇談がある。枳園は相模国に逃れた後、時々微行して江戸に入り、伊沢氏若くは渋江氏に舎《やど》つた。祖母の死んだ時は、遺骨を奉じて江戸に来り、榛軒を訪うて由を告げた。榛軒は金を貽《おく》つて※[#「歹+僉」、第4水準2−78−2]葬《れんさう》の資となした。枳園は急需あるがために其金を費し、又遺骨を奉じて浦賀に帰つた。
 月を踰《こ》えて枳園は再び遺骨を奉じて入府し、又榛軒の金を受け、又これを他の費途に充《あ》て、又遺骨を奉じて浦賀に帰つた。
 此の如くすること三たびに及んだので、榛軒一策を定め、自ら金を懐にして家を出で、枳園をして遺骨を奉じて随ひ行かしめた。そして遺骨を目白の寺に葬つたさうである。目白の寺とは恐くは音羽洞雲寺であらう。枳園の祖父|伏牛親徳《ふくぎうしんとく》の墓も亦洞雲寺にあつたからである。洞雲寺は池袋丸山に徙されて現存してゐる。
 洞雲寺の森氏の塋域に、天保九年戊戌に歿した「清光院繁室貞昌大姉」の墓がある。わたくしは此が枳園の祖母であらうとおもふ。
 此年榛軒三十五、妻志保三十九、女柏四つ、同久利二つ、柏軒と妻俊とは二十九、蘭軒の女長二十五、蘭軒の姉正宗院六十八であつた。

     その二百四十六

 天保十年は蘭軒歿後第十年である。五月二十八日に、蘭軒の父にして榛軒の祖父なる信階《のぶしな》の三十三回忌が営まれたらしい。徳《めぐむ》さんの蔵する一枚の色紙がある。「伊沢ぬし祖父君の三十三年の忌に、あひしれる人々をつどへ給へるをりに、おのれもかずまへられければ。三世かけてむつびあふまでおいせずばむかしをしのぶけふにあはめや。こは祖父君よりしてかたみに心へだてぬ中なればなりけり。定良。」是は蘭軒の詩中に見えてゐる木村|駿卿《しゆんけい》である。此人は弘化三年に歿したが、未だ其生年を詳《つまびらか》にしない。
 七月二十日に榛軒の次女久利が三歳にして歿した。法諡《はふし》示幻禅童女《しげんぜんどうによ》である。
 九月二十七日に蘭軒の門人山田|椿町《ちんてい》が蘭軒医話を繕写してこれに序した。
 わたくしは前に塩田|良三《りやうさん》の生れたことを記したから、此に柏軒門下にして共に現存してゐる松田|道夫《だうふ》の此年に生れたことを併記して置く。後に叙すべき柏軒の事蹟は、二氏の談話に負ふ所のものが多い。
 此年榛軒三十六、妻四十、女柏五つ、柏軒と妻俊とが三十、蘭軒の女長二十六、蘭軒の姉正宗院六十九であつた。
 天保十一年は蘭軒歿後第十一年である。榛軒に「天保十一庚子元旦」の七絶がある。今其|辞《ことば》を略する。
 三月に榛軒が古文孝経を伊勢の宮崎文庫に納めた。徳さんは其領券を蔵してゐる。「謹領古文孝経孔子伝一冊。右弘安二年古写本影※[#「墓」の「土」に代えて「手」、第3水準1−84−88]。阿部賢侯蔵板。賢侯跋而梓行。今茲献納大神宮文庫。伏惟。崇学尚古之余。施及斯挙。豈無洪休神明維享。書生等亦倶拝賜。不勝欣戴之至。遵例標録。以垂千祀矣。是為券。天保十一年庚子三月。豊宮崎文庫書生。伊沢長安雅伯。」
 わたくしは榛軒の妻志保が始て柏に仮名文字を授けたのは此頃であつたかと謂《おも》ふ。女中等は志保の子を教ふることの厳なるを見て、「お嬢様はおかはいさうだ」と云つたさうである。柏の最もうれしかつた事として後年に至るまで記憶してゐるのは、此頃大久保|主水《もんど》の店から美しい菓子を贈られたことである。大久保氏は前に云つた如く蘭軒
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