養子三右衛門は二人ある。離縁せられた初の三右衛門は造酒業|豊島屋《としまや》の子であつた。離縁の理由としては、所謂|天閹《てんえん》であつたらしく伝へられてゐる。其真偽は固より知ることが出来ない。後の三右衛門は即ち懐之の後を襲《つ》いだ矩之《くし》で、本《もと》斎藤氏である。
わたくしは一の事実より推して、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎歿後に懐之が続いて店主人たりし時代は甚だ短くはなかつたことを知る。それは柏軒の女《ぢよ》国《くに》が、初め豊島屋から来た三右衛門の配として迎へられ、その離縁せられた後、遂に斎藤氏から来た三右衛門矩之に嫁したと云ふ事実である。
矩之は天保十四年生、国は弘化元年生である。懐之の歿した安政三年には、矩之が十四歳、国が十三歳であつた。矩之に先《さきだ》つて狩谷氏に来た豊島屋の子三右衛門は、縦《よ》しや矩之より長じてゐたとしても、既に国を配すべき少年であつたとすれば、其|齢《よはひ》の懸隔は甚だ大くはなかつただらう。
是に由つて観れば、懐之の退隠は安政の初年より早くはなかつただらう。此年乙未より安政紀元の甲寅に至る間は二十年である。是が懐之の店主人であつた筈の年数である。彼《かの》「怙を喪つて久からずして」退隠したと云ふ説は、斟酌して聞くべきである。わたくしは後に至つて又此問題に立ち帰るであらう。
※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の歿した時、其妻はどうしてゐたか。墓誌には唯「出為従祖弟狩谷保古嗣、配以第三女」の句があるのみである。わたくしは此に拠つて※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の妻が狩谷|保古《はうこ》の第三女であつたことを知る。しかし其生歿を明にすることを得ない。天竜寺には※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の墓があつて、妻狩谷氏の墓は無い。
わたくしは頃日《このごろ》料《はか》らずも※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の妻の忌日を知ることを得たやうにおもふ。若し他に記録の徴すべきものが無いとすると、是も亦※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎伝を補ふべき重要なる材料の一であらう。
その二百十五
わたくしは此年天保乙未に狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の歿した時、其妻はどうしてゐたかと問うた。既に屡《しば/\》云つた如くに、わたくしは※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の詳伝の有無《いうむ》を知らない。しかし見聞《けんもん》の限を以てすれば、其妻であつた狩谷|保古《はうこ》の第三女は生歿の年月が不詳であるらしい。
然るにわたくしは頃日《このごろ》市《いち》に閲《けみ》して一小冊子を獲た。藍界《らんかい》の半紙二十六枚のマニユスクリイで、茶表紙の上に貼《てふ》した簽《せん》に「糾繩抄」の三字が題してある。内容は享和三年より天保九年に至るまでに歿した人の忌日で、聴くに随つて書き続いだものと覚しく、所々明に墨色の行毎に殊なるを認める。
一友人は筆蹟が屋代弘賢《やしろひろかた》に似てゐるが故に、或は弘賢の自筆本ではなからうかと云ふ。弘賢は天保十二年に八十四歳で歿した。若し友の言《こと》の如くならば、輪池《りんち》が歿前三年即八十一歳に至るまで点簿したこととなるであらう。
按ずるに標題の糾繩《きうじよう》は隋書に「若不糾繩、何以粛※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]」と云つてある如く、ただす義である。此を以て此書に名づけたのは不審である。わたくしは或は糾纏《きうてん》の誤ではなからうかと疑つた。しかし詩人等は屡糺繩を用ゐること糾纏のごとくにしてゐる。わたくしは題簽を熟視してゐるうちに、ふと紙下に墨影あるに心附いた。そして日に向つて透《すか》して視た。果して茶表紙に直《ぢき》に書いた別の三字があつた。此三字は「過去帳」であるらしい。推するに初め過去帳と題し、後|忌《い》んで糾繩抄と改めたものであらう。
此糾繩抄の文化七年庚午の下《もと》には七人の名がある。原文の儘に録すれば、下《しも》の如くである。「正月廿七日小野蘭山(八十二歳、二月発喪)細見権十郎(三月十六日、実は八月十四日、号秋月院道法日観居士)加藤定四郎(四月十九日朝)太田備後守殿(六月十七日於掛川死去、脚気腫之由)望之妻(六月十八日朝)吉川熊太郎(七月十四日病死)おのふ(八月。)」括弧内は細註の文である。
わたくしは此「望之妻」は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の妻であらうと謂《おも》ふ。果して然らば、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の妻狩谷氏は文化七年庚午六月十八日の朝歿したこととなるであらう。
※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の墓誌には「育一男二女、男即懐之、(中略、)女一適高橋某、一適
前へ
次へ
全284ページ中169ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング