伊沢信重」と書してある。伊沢分家の口碑の伝ふる所に拠れば、初め狩谷保古は望之《ばうし》を養ふに当つて、其生父高橋|高敏《かうびん》に約するに、望之の子をして高橋氏を嗣《つ》がしむることを以てした。それゆゑ※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の長女たかのは高橋氏に養はるることとなつてゐた。然るにある日長女次女は相携へて浅草の観音に詣でた。家に帰つて、長女は病臥し、遂に起たなかつた。次女はたか、後の名は俊《しゆん》で、長じて後柏軒に嫁《か》した。誕生の順序は第一懐之、第二たかの、第三たかであつたと云ふのである。
 ※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の妻が文化七年に歿したとすれば、是は懐之七歳、たか一歳の時である。たかのは懐之より穉《をさな》く、たかより長じてゐたことを知るのみで、其生歿年を詳《つまびらか》にしない。当時※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は三十六歳であつた。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の妻は夫に先つこと二十五年にして既に歿してゐた。

     その二百十六

 此年乙未には蘭軒門人森枳園の家に冢子《ちようし》約之《やくし》が生れた。渋江抽斎の家では嫡子|恒善《つねよし》が既に十歳になつてゐて、此年第二子|優善《やすよし》が生れた。約之と優善とは榛軒の女《ぢよ》柏《かえ》と同庚で、若し大正丁巳までながらへてゐたら、今の曾能子《そのこ》刀自と倶に、八十三歳になつてゐる筈である。
 此年榛軒三十二、妻志保三十六、柏軒二十六、長二十二、志保の産んだ柏一歳であつた。
 天保七年には春の未だ闌《たけなは》ならぬうちに、柏軒が狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の第二女たか、後の名|俊《しゆん》を娶《めと》つたらしい。何故と云ふに、柏の初節句即丙申の三月三日には、たかが家にゐたと伝へられてゐるからである。
 柏軒たかの夫婦は同庚である。そして共に二十七歳で結婚したこととおもはれる。
 たかは善く書を読んだ。啻《たゞ》に国文を誦《じゆ》するのみではなく、支那の典籍にも通じてゐた。現に徳《めぐむ》さんの姉|良子《よしこ》刀自は、たかが子に授けむがために自ら書した蒙求《まうぎう》を蔵してゐる。拇指大《ぼしだい》の楷書である。女文字に至つては当時善書の聞《きこえ》があつた。連綿草《れんめんさう》を交へた仮名の散らし書の消息数通、細字の文稿二三巻も亦良子刀自の許にある。蘭軒の姉正宗院と云ひ、此たかと云ひ、渋江抽斎の妻五百と云ひ、仮名|文《ぶみ》の美しきことは歎賞すべきである。たかは折々父※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に代つて歌を書いた。そして人はその孰《いづ》れか※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎にして孰れかたかなるを辨ずることを得なかつた。たかは歌を詠じ、文章を書いた。
 たかは夙《はや》く今少納言と称せられ、又単に少納言と呼ばれた。それゆゑ後に山内氏五百が才名を馳せた時、人が五百を新少納言と呼んだ。たかの少納言に対《むか》へて呼んだのである。たかは五百より長ずること七歳であつた。渋江保さんは両少納言の初て相見た時の事を母に聞いてゐる。これは大勢で川崎の大師に詣でた時で、二人を紹介したのは磯野勝五郎即後の石川貞白であつた。五百は後に「思つた程美しくはなかつた」と云つた。たかは背が低かつたさうである。
 たかは諸藝に通じてゐて、唯音楽を解せなかつた。塙検校《はなはけんぎやう》の類《たぐひ》であつたと見える。
 たかは処女時代に黒田家の奥に仕ふること三年であつた。正宗院の曾て仕へた家である。君侯のお手が附いたと云ふ虚説が伝へられたために、暇《いとま》を乞うたさうである。
 たかの柏軒に嫁したのは、自ら薦めたのださうである。「磐安《ばんあん》さんがわたしを女房《にようぼ》に持つてくれぬかしら」とは、たかの屡《しば/\》口にした所であつた。推するに橋わたしは石川であつたかも知れない。当時|懐之《くわいし》の家は富裕であつた。然るにたかはみづから択んで一諸生たる柏軒に嫁《か》したのである。
 保さんは彼「失はれたるマニユスクリイ」抽斎日乗に、五六枚の記事のあつたことを記憶してゐる。それは諸友の柏軒たかの華燭を賀した詩歌であつた。中には狂歌狂句俗謡の類で、文字の稍《やゝ》褻《せつ》に亘つたものが夾雑してゐた。女のしかけた恋だと云ふ故であつたらしい。

     その二百十七

 わたくしは渋江抽斎の日乗に、柏軒と狩谷氏たかとの合※[#「丞/巳」、8巻−45−上−5]《がふきん》を祝する詩歌、俳諧、俗謡があつて、中には稍褻に亘つたものゝあつたことを語つた。そして是がたかの自ら薦めた故であつたらしいと云つた。しかしたかの此の如き揶揄を被《かうむ》つたには、猶別に原因があるら
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