である。榛軒の家には一男子が死して一女子が生れた。
男子は誰であるか。先霊名録に曰く。「疎桐禅童子。信厚義子。実信重子。母藤田氏。天保六年乙未閏七月十七日歿。」子は法諡《はふし》を疎桐《そとう》と云つた。恐くは未だ小字《をさなな》を命ずるに及ばずして夭したのであらう。疎桐の生父は柏軒である。柏軒は後狩谷氏|俊《しゆん》を娶《めと》つた。又一|妾《せふ》佐藤氏春を畜《やしな》つてゐた。しかし疎桐の生れたのは狩谷氏の未だ来り嫁《か》せざる前である。又佐藤氏春の齢《よはひ》を推算するに、春は文政八年の生で、此年|甫《はじめ》て十一歳であつた。わたくしは藤田氏の女《ぢよ》の何人《なにひと》なるを知らぬが、その産む所の疎桐が柏軒|未娶前《みしゆぜん》の子なることは明である。それゆゑに兄榛軒は己の子として公《おほやけ》に稟《まう》したのであらう。
女子は誰であるか。榛軒の継室飯田氏|志保《しほ》の始て生む所で、初め名を柏《かえ》と命ぜられた。即ち大正丁巳に至つて八十三歳の寿を保つてゐる曾能子《そのこ》刀自である。若し榛軒の先妻|勇《ゆう》の出《しゆつ》なるれんよりして順位を論ずれば、刀自は第二女である。わたくしの此より下《しも》に記する所は、刀自の記憶に負ふ所のものが極て多い。
此年|閏《じゆん》七月四日に狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が六十一歳で歿した。松崎|慊堂《かうだう》撰の墓誌に、「天保乙未、遽焉嬰病」と書してあるから、前年甲午に至るまでは尚|健《すこやか》であつたと見える。他日慊堂日暦を閲《けみ》したらば、或はその何の病なるを知ることを得るかも知れない。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の歿したのは、浅草の常関書院に隠居してより第十九年の事である。津軽家用達として世に聞えてゐた湯島の店には、当主|懐之《くわいし》が三十二歳になつてゐた筈である。懐之の妻は所謂呉服屋後藤の女《むすめ》で、名をふくと云つたさうである。
湯島の津軽屋は大い店で、留蔵、音三郎、梅蔵三人の支配人即|通番頭《かよひばんとう》が各《おの/\》年給百五十両であつた。渋江保さんの話に、渋江氏の若党柴田清助の身元引請人利兵衛は、本町四丁目の薬店《やくてん》大坂屋の通番頭で、年給二十両であつた。大坂屋では是が最高の給額で、利兵衛一人がこれを受け、傍輩に羨まれてゐた。渋江抽斎の妻《さい》五百の姉夫《あねむこ》塗物|問屋《どひや》会津屋宗右衛門方の通番頭は首席を庄太郎と云つて、年給四十両であつた。五百の里親神田紺屋町の鉄物《かなもの》問屋日野屋忠兵衛方には、年給百両の通番頭二人があつて、善助、為助と云つた。此日野屋すら相応の大賈《たいこ》であつた。此等より推せば、通番頭三人に各年に百五十両を給した、津軽屋の大さが想見せられる。且津軽家は狩谷に千石の禄を与へた。次年五月は廩米《りんまい》中より糯米《じゆべい》三俵を取つて柏餅を製し、津軽藩士と親戚故旧とに貽《おく》るを例としてゐたさうである。
※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の死は、津軽屋のためには尋常隠居の死として視るべきではなかつただらう。懐之は固より凡庸人でなかつたことが、慊堂の「風度気象能肖父」を以て証せられてゐる。しかし性頗る酒色を好んだ。家にあるに手杯《てさかづき》を釈《お》かず、客至れば直に前に陳《なら》べた下物《げぶつ》を撤せしめて、新に※[#「肴+殳」、第4水準2−78−4]核《かうかく》を命じた。そして吾家に冷羮残炙《れいかうざんしや》を供すべき賤客は無いと云つたさうである。又|妻《さい》後藤氏に随つて来た侍女に姿色があつたので、遂に留めて妾《せふ》としたと言ふ。想ふに湯島の店は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の董督《とうとく》に待つあること鮮少《せんせう》でなかつただらう。
その二百十四
わたくしは狩谷懐之が、縦令《たとひ》多少書を読んでゐたとしても、必ずしも大商店を経営する力をば有せなかつたものと推する。父※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は浅草に隠居した後も、屡《しば/\》湯島に往来して、懐之を庇※[#「广+陰」、8巻−40−上−11]《ひいん》することを怠らなかつたであらう。此年乙未の秋には、其※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が歿したのである。
わたくしは嘗て懐之が怙《こ》を喪つた後久しからずして下谷|徒町《かちまち》に隠居し、湯島の店を養子三右衛門に譲り、三右衛門が離別せられた後、重て店主人《てんしゆじん》となつたことがあると聞いてゐる。此説は懐之に自知の明があつて、早きを趁《お》うて責任ある地位を遯《のが》れたものとも解せられる。わたくしは只その年月の遅速を詳《つまびらか》にしない。
懐之の
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