も、流行る伊沢へ五六年、読書三年匙三月、薬|※[#「坐+りっとう」、第3水準1−14−62]《きざ》みや丸薬や、頼まうどうれの取次や、それから諸家へ代脈に、往つて鍛ふが医者の腕、それを為遂《しと》げりや四|枚肩《まいがた》。」榛軒が父の世の家声を墜さなかつたことは明である。
 此年文政十二年に、頼氏では山陽が五十になり、其母|梅※[#「風にょう+思」、第4水準2−92−36]《ばいし》が七十になつた。「五十児有七十母、此福人間得応難。」
 伊沢氏では此年榛軒が既に云つた如く二十六、弟柏軒が二十、妹長が十六になつてゐた。榛軒の妻勇は其|歯《よはひ》を詳《つまびらか》にしない。蘭軒の姉正宗院|幾勢《きせ》は五十九であつた。

     その百九十五

 文政十三年は天保と改元せられた年で、蘭軒歿後第一年である。榛軒詩存に「天保庚寅元日」の詩がある。「妍々旭日上疎櫺。影入屠蘇盃裏馨。梅自暖烟生処白。草追残雪※[#「さんずい+絆のつくり」、第3水準1−86−63]辺青。読方択薬宜精思。射利求名豈役形。唯宝儂家伝国璽。明堂鍼灸宋雕経。」註に曰く。「余家旧蔵北宋槧本明堂鍼灸経。是架中第一珍書。故及之。」
 蘭軒|手沢《しゆたく》の書には古いものが頗《すこぶる》多かつたが、大抵鈔本であつた。それゆゑ当時最古の刊本として明堂鍼灸経《めいだうしんきうきやう》を推したのであらう。明堂鍼灸経とはいかなる書か。
 北宋太宗の太平興国七年に、尚薬奉御《しやうやくほうぎよ》王懐隠《わうくわいいん》等に詔《みことのり》して、太平聖恵方《たいへいせいけいはう》一百巻を撰ばしめた。其書は淳化三年に成つた。太宗は自らこれに叙して、「朕尊居億兆之上、常以百姓為心、念五気之或乖、恐一物之失所、不尽生理、朕甚憫焉、所以親閲方書、俾令撰集、溥天之下、各保遐年、同我生民、躋於寿域、今編勒成一百巻、命曰太平聖恵方、仍令彫刻印版、※[#「彳+扁」、第3水準1−84−34]施華弟、凡爾生霊、宜知朕意」と云つてゐる。即ち十世紀の書である。
 太平聖恵方の完本は、躋寿館《せいじゆくわん》に永正中の鈔本の覆写本があつた。其刊本は同館に七十三、七十四、七十九、八十、八十一の五巻を儲《たくは》へてゐたのみである。
 然るに此聖恵方の第一百巻に黄帝明堂鍼灸経が収めてあつた。是は素《もと》唐以前の書で、王等が採り用ゐたのである。既にして人あつて古版|首行《しゆぎやう》の「太平聖恵方」の五字を削り去り、単行本として市《いち》に上《のぼ》せた。故に首行の上《かみ》に空白を存じてゐる。此の変改せられた北宋|槧本《ざんほん》が躋寿館に一部、伊沢氏の酌源堂に一部あつた。彼は「長門光永寺」の墨印があり、此は「吉氏家蔵」の印があつた。経籍訪古志に「酌源堂亦蔵此本、紙墨頗精」と云つてあるのが即後者で、榛軒の詩中に斥《さ》す所である。今其所在を知らない。
 詩存には此春の詩が猶十八首あつて、就中《なかんづく》五首は阿部侯|正寧《まさやす》に次韻したもの、五首は賜題の作である。榛軒が正寧に侍して詩を賦したのは、蘭軒が正精《まさきよ》に侍して詩を賦したと相似てゐる。
 此年十月に榛軒は正寧に扈随して福山に往くこととなつた。前年来江戸に来て、丸山邸に住んでゐる門田《もんでん》朴斎は「白蛇峰歌」を作つてこれを送つた。「白蛇峰上白雲多。峰前是我曾棲処。黍山最高只此峰。勧君吟屐穿雲去。北望雲州与伯州。独有角盤相対※[#「にんべん+牟」、第3水準1−14−22]。臨風絶叫称絶勝。未輸五岳名山遊。吾兄在彼諳山蹊。恰好前導攀丹梯。別後思君復思兄。白雲満山夢不迷。」朴斎は兄|富卿《ふけい》を前導者として榛軒に推薦したのである。
 福山へ立つた兄榛軒と、江戸に留まつた弟柏軒との間に取り替された書牘は、集めて一巻となし、「荏薇問答」と題してある。荏土《えど》と黄薇《きび》との間に取り替されたからであらう。わたくしは此書を徳《めぐむ》さんに借りて、多少の価値ありと認むべき数条を抄出する。
 榛軒は十月十六日の暁に江戸を発した。同行した僚友は雨富良碩《あまとみりやうせき》、津山|宗伯《そうはく》であつた。留守は柏軒で、塩田|楊庵《やうあん》、当時の称小林|玄瑞《げんずゐ》が嘱を受けて其相談相手になつた。
 榛軒が去つた直後に、留守宅に傷寒論輪講の発会があつた。来会者は各《おの/\》数行の文を書して榛軒に寄せた。合作の柬牘《かんどく》である。会日は十月二十日であつた。
 首《はじめ》に柏軒が書した。「磐安《はんあん》曰。集まりし人より伝言左の如し。尤《もつとも》各自筆なり。」
 次に渋江抽斎が書した。「道純敬啓。御出立の砌は参上、得拝眉、大慶不過之候。御清寧、御道中種々珍事可有之、奉恭羨候。廿日より傷寒論講釈相始候処、諸君奇講甚面白し。輪
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