の職業をおしこみなさるが好い。」
 某は慙謝《ざんしや》して退いたさうである。蘭軒の病弱は其形骸にあつて、其精神にはなかつた。蘭軒は身を終ふるまで学問のために努力して、毫も退転しなかつたのである。
 わたくしは此に蘭軒の事蹟を叙し畢《をは》つて、其歿後の記録に入らうとする。わたくしは境に臨んで※[#「くさかんむり/姦」、7巻−377−上−9]斎《かんさい》詩集の一書を回顧する。詩集はわたくしが富士川氏に借り得て、今に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》るまで座右に置き、其編年の体例に拠つて、我文の骨格を構へ成した所のものである。
 わたくしは今詩集を富士川氏に返さうとする。そして今一たび其|巻《まき》を繙閲する。巻は百|零《れい》三|頁《けつ》の半紙本で、頁数《けつすう》は森|枳園《きゑん》の朱書する所である。首に「※[#「くさかんむり/姦」、7巻−377−上−15]斎詩集、伊沢信恬」と題してある。印が二つある。上《かみ》のものは「森氏」で枳園の印、下のものは「伊沢氏酌源堂図書記」で蘭軒の印、並に朱文篆字《しゆぶんてんじ》である。載《の》する所の詩は、五古一、七古一、五律六十七、七律百零三、五絶十九、七絶三百九十七、通計五百八十八首である。
 わたくしは此に「蘭軒文集」の事を附記する。此書は蘭軒の文稿を綴輯《てつしふ》したもので、完書の体を成さない。命題の如きも、巻首及|小口書《こぐちがき》、題簽、巻尾、各《おの/\》相異つてゐる。「蘭軒文集」と云ひ、「蘭軒文草」と云ひ、「蘭軒遺稿」と云ふ、皆後人の命ずる所である。九十七|頁《けつ》の半紙本で、首に「森氏」、「伊沢家書」の二印がある。並に篆字朱文である。載する所は序十四、跋二十九、書二、記二、考一、墓誌三、雑二で、その重出するものを除けば、序六、跋十八、書一、記一、考一、墓誌一、雑二となる。通計文三十篇である。わたくしは此書を伊沢信平さんに借りて、参照の用に供した。今詩集を富士川氏に返すに当つて、文集をも伊沢宗家に返し、二家に嘱するに此副本なき二書を愛護せむことを以てする。

     その百九十四

 蘭軒が歿した後、嫡子|榛軒信厚《しんけんのぶあつ》が伊沢分家を継いだ。榛軒は二十六歳を以て主人となつたのである。その家督を命ぜられた月日の如きは、記載の徴すべきものが無い。榛軒は其時に至るまで棠助《たうすけ》と称し、今祖父|信階《のぶしな》の称を襲《つ》いで長安となつたのであらう。
 蘭軒の室《しつ》飯田氏|益《ます》は夫に先《さきだ》つて歿したので、蘭軒歿後には只側室佐藤氏さよが残つただけである。榛軒は幾《いくばく》もあらぬに、これに貲《し》を与へて人に嫁せしめた。
 是に於て榛軒の新家庭には妻|勇《ゆう》、弟柏軒、妹|長《ちやう》の三人があつて、主人を併せて四人をなしてゐた筈である。勇の生んだ女《むすめ》れんは前年戊子十二月四日に死に、今年己丑に入つてより、二月二日に榛軒と柏軒との間の同胞常三郎、五日に此三子の母飯田氏益、三月十七日に父蘭軒が死んだのである。
 蘭軒の門人は多くは留まつて榛軒の教を受くることゝなつた。門人等は復《また》「若先生」と呼ばずして「先生」と呼ぶこととなつたのである。
 蘭軒の遺弟子《ゐていし》は所謂又分家の良子《よしこ》刀自所蔵の門人録に八十一人、所謂分家の徳《めぐむ》さん所著《しよちよ》の歴世略伝に二十一人が載せてあつて、二書には互に出入があり、氏名の疑似のために人物の同異を辨ずるに苦むものもある。今重複を除いて算するに、約八十二三人となる。しかし蘭軒自筆の勤向覚書に僅に門人七人の氏名が見えてゐて、その門人録及歴世略伝に載するもの四人、門人録に載せて、歴世略伝に載せざるもの二人、二書並に載せざるもの一人である。是に由つて観れば、門人録も歴世略伝も、猶脱漏あることを免れぬものと見える。今三書を湊合して、新に一の門人録を作ることは容易であるが、読者の厭悪《えんを》を奈何《いかん》ともし難い。
 わたくしは此に第《しばら》く当時の所謂「蘭門の五哲」を挙げる。即ち渋江抽斎、森枳園、岡西玄亭、清川玄道、山田|椿庭《ちんてい》である。蘭軒の歿後に、榛軒は抽斎、玄亭、椿庭の詩箋、枳園の便面《べんめん》、玄道の短冊を一幅に装《よそほ》ひ成したことがある。此幅は近年に至るまで徳さんの所にあつたが、今其所在を知らない。
 それはとにかく、榛軒の世となつた後も、医を学ぶものが伊沢分家の門に輻湊したことは、当時の俗謡に徴して知ることが出来る。わたくしは此に其|辞《ことば》の卑俚《ひり》を嫌はずして、榛軒の女《ぢよ》曾能子《そのこ》刀自の記憶する所のとつちりとん一|※[#「門<癸」、第3水準1−93−53]《き》を録する。「医者になるならどこより
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