るを憾んだのである。
 わたくしは更に細《こまか》に詩集を検して、箒を僮僕の手に委ぬることが、蘭軒のために奈何《いか》に苦しかつたかを想見した。文化己巳は蘭軒の猶起行することを得た年である。当時の詩中に「掃庭」の一絶がある。「手提筅箒歩庭隅。無那春深易緑蕪。刈掃畏鏖花草去。頃来不輙付園奴。」
 蘭軒は啻《たゞ》に庭園の潔《けつ》ならむを欲したのみではなかつた。口碑に拠るに又居室の潔ならむを欲した。そして決して奴婢をして居室を掃除せしめなかつた。毎日箒を手にして父の室に入るものは長子榛軒であつた。蘭軒は榛軒の性|慎密《しんみつ》にして、一事をも苟《いやしく》もせざるを知つて、これに掃除を委ねたのである。
 偶《たま/\》榛軒が事あつて父の未だ起たざるに出で去ることがあると、蘭軒は甘んじて塵埃中に坐して、肯《あへ》て三子柏軒をして兄に代らしめなかつた。粗放なる柏軒をして案辺《あんへん》の物を飜攪《ほんかう》せしむるは、蘭軒の耐ふること能はざる所であつた。
 蘭軒は又潔を好むがために、榛軒をして手を食饌の事に下さしむることがあつた。例之《たとへ》ば蘭軒は酒を飲むに、数《しば/\》青魚※[#「魚+而」、第3水準1−94−40]《かずのこ》を以て下物《げぶつ》とした。そして青魚※[#「魚+而」、第3水準1−94−40]を洗ふには、必ず榛軒の手を煩した。
 次に口碑は蘭軒の花卉を愛したことを伝へてゐる。吉野桜の事、蘭草《ふぢばかま》の事は既に前に見えてゐる。其他人に花木を乞うて移し栽ゑたことは、その幾度なるを知らない。梅を栽ゑ、木犀を栽ゑ、竹を移し、芭蕉を移したことは、皆吟詠に見《あらは》れてゐる。又文政辛巳と丁亥とには、平生多く詠物の詩を作らぬのに、草花を詠ずること前後十六種に及んだ。
 就中《なかんづく》わたくしの目に留まつたのは、つゆ草の詩である。わたくしは児時|夙《はや》く此草を愛した。吾郷人の所謂かめがらである。頃日《このごろ》「みゝずのたはこと」の一節が小学教科書に入つて、児童に此微物の愛すべきを教へてゐる。「何仙砕碧玉。化作小蛾児。貪露粘微草。不飛復不移。右鴨跖草。」わたくしの家の小園には長原止水さんの贈つた苗が、園丁の虐待を被りつゝも、今猶跡を絶たずにゐる。
 蘭軒は草花を詠じて、往々本草家の面目を露すことがある。たうぎばうしの詩の如きは是である。「玉簪化為草。漫向小園開。嬌媚休相近。毒根刮骨来。右玉簪花。」
 最後に口碑の伝ふる所の敗醤花《はいしやうくわ》の一笑話を挙げる。蘭軒は婢を上原全八郎の家に遣つて敗醤花を乞うた。口上は「お約束のをみなめしを頂きに参りました」と云ふのであつた。婢は新に田舎より来て、「めし」を「御膳」と呼ぶことを教へられてゐた。それゆゑ「をみなごぜん」と云つた。上原の妻は偶|山梔子《くちなし》の飯を炊《かし》いでゐたので、それを重箱に盛つて持たせて帰した。

     その百九十三

 伊沢分家の口碑に蘭軒の平生を伝ふるものは、概ね上《かみ》に記するが如くである。わたくしは此に一二附記して置きたい。其一は蘭軒の筆蹟の事である。富士川氏所蔵の自筆本数種を見るに、細楷と行狎《ぎやうかふ》と皆|遒美《いうび》である。塩田|真《まさし》さんの談に、蘭軒は人に勧めて雲麾碑《うんきのひ》を臨せしめたと云ふ。平生書に心を用ゐたものとおもはれる。真さんは小字良三《せうじりやうさん》、楊庵の子である。
 わたくしは金石文の事を知らない。若し此に云ふ所に誤があつたら、人の教を得て正すであらう。雲麾将軍は李氏、名は秀、字は元秀、范陽の人で、唐の玄宗の開元四年に歿した。其碑は李※[#「巛/邑」、第3水準1−92−59]《りよう》が文を撰み自ら書した。然るに李※[#「巛/邑」、第3水準1−92−59]に両《ふたつ》の雲麾の碑がある。一は李思訓《りしくん》の碑にして一は此碑である。思訓と秀とは同姓同官である。此碑は良郷《りやうきやう》より宛平県に、宛平県より順天府に入つて、信国祠《しんこくし》の壁に甃《しう》せられてゐるさうである。其拓本の種類等はこれを審《つまびらか》にしない。
 其二は蘭軒が医の職を重んずるがために、病弱の弟子《ていし》を斥《しりぞ》けた事である。某《それがし》は蘭軒に請ふに、其子に医を教へむことを以てした。そして云つた。「生れつき虚弱な子でございます。武藝などははかばかしく出来さうもござりませぬ。お医者様になつて薬の事を心得てゐたら、自身のためにも便利だらうと存じます。」
 蘭軒はこれを聞いて眉を蹙《しか》めた。「それは悪いお思附だ。医は司命の職と云つて、人の死生の繋る所だから、其任は重い。医の学ぶべき事は極て広大で、これを窮むるには人に超えた力量がなくてはならない。御子息が御病身なら、何か医者でない、外
前へ 次へ
全284ページ中153ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング