近視であつたと云ふことは、或は事実であらうか。
 河童が存在するか。又仮に存在するとして、それが化けるか。此等は評論すべき限で無い。額の正中《せいちゆう》に一|目《もく》を開いてゐる畸形は胎生学上に有りやうがない。
 要するに一つ目小僧物語の評は当時の蘭軒の言《こと》に尽きてゐる。「お前が見損つたのだ。」
 次に鶏肋《けいろく》として存じて置きたい一話は、蘭軒が猫を愛したと云ふ事で、その蓄《か》つた所の桃花猫《とき》と呼ばれた猫の伝さへ口碑に遺つてゐる。これより伊沢氏|桃花猫《たうくわべう》の伝に入る。

     その百九十一

 伊沢分家の口碑に伝ふる所の猫の事は、聴くがままに記すれば下《しも》の如くである。
 蘭軒の愛蓄する所の猫があつた。毛色が白に紅《くれなゐ》を帯びてゐた。所謂|桃花鳥《とき》色である。それゆゑ名を桃花猫《とき》と命じた。
 或時蘭軒が病んで久しきに瀰《わた》つたので、諸家の寄する所の見舞物が枕頭に堆積せられた。蘭軒は褥中にあつて猫の頭《かうべ》を撫でつつ云つた。「余所《よそ》からはこんなにお見舞が来るに、ときは何もくれぬか。」
 少焉《しばらく》して猫は一尾の比目魚《かれひ》を銜《くは》へて来て、蘭軒の臥所《ふしど》の傍《かたはら》に置いた。
 忽ち厨《くりや》の方《かた》に人の罵り噪《さわ》ぐ声が聞えた。程近き街の魚屋《うをや》が猫に魚を偸《ぬす》まれて勝手口に来て女中に訴へてゐるのであつた。
 蘭軒は魚《うを》の価を償うた。そして猫に謂つた。「人の家の物を取つて来てはいけぬ。」
 次の日に猫は雉を捕へて来た。蘭軒の屋《いへ》の後には仮山《つきやま》があつて草木が茂つてゐた。雉はをり/\そこへ来ることがあつたのを、猫が覗つてゐて捕へたのである。
 魚を偸んだと雉を捕へたとの二つの事が相踵《あひつ》いで起つたので、家人は猫が人語を解すると以為《おも》つた。是より猫は家人の畏れ憚る所となつた。
 猫は蘭軒歿後にも榛軒に畜《か》はれてゐて、十三年の後に死んだ。榛軒の妻は蘭軒の旧門人塩田楊庵に猫を葬ることを託して、金二朱を裹《つゝ》んで寺に布施せしめた。
 楊庵は金と猫の屍とを持つて、本郷菊坂の長泉寺に往つた。長泉寺の当時の住職は楊庵の小父であつた。
 住職は不在であつた。楊庵は寺の僕に猫を※[#「やまいだれ+(夾/土)」、第3水準1−88−54]《うづ》むることを謀り、且布施金二朱を持つて来たことを告げた。
 楊庵は十七歳の時江戸に来て、此寺に寄宿し、名医を尋ねて師事しようとして、遂に蘭軒の門に入つたのである。僕は当時寺にゐたので、楊庵と親しかつた。僕は楊庵に謂つた。「そのお金は和上《をしやう》様に上げなくてはならないのでせうか。」
「さうさな」と楊庵は云つて、顔には横着らしい微笑《ほゝゑみ》が見えた。「小父さんは金を上げなくつても、回向をして下さるかも知れない。」
「それは大丈夫です」と、僕が受け合つた。
 僕は程近い天麩羅屋に天麩羅を誂へた。そして飯を炊いた。猫を※[#「やまいだれ+(夾/土)」、第3水準1−88−54]《うづ》め畢《をは》つた時、飯が熟し天麩羅が来た。二人は飽くまで食つた。楊庵は大食の癖があつて、酒を嗜《たし》まなかつた。僕はそれを知つてゐたのである。
 楊庵は榛軒の妻に復命した。「猫は長泉寺に葬りました。回向は小父がいたすやうに申して置きました。しかしわたくしは※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]を衝くことが嫌だから申しますが、あの二朱は穴を掘らせた男に天麩羅を買つて食はせて、わたくしは相伴をいたしました。」
 蘭軒歿後十三年は天保壬寅である。榛軒の妻は当時継室志保になつてゐた。塩田楊庵は出羽国山形の七日町《なぬかまち》から、文政癸未に江戸に出て長泉寺に寓し、尋で蘭軒の門に入つた。当時の名は小林玄瑞であつた。猫を葬つた壬寅の歳には神田松坂町の流行医塩田|秀三《しうさん》の養子になつて、子|良三《りやうさん》をもまうけてゐた。年は既に三十六歳、榛軒より少《わか》きこと三歳であつた。楊庵は肥胖漢《ひはんかん》で、其大食は師友を驚かしたものである。渋江抽斎は楊庵の来る毎に、例《いつ》も三百文の切山椒を饗した。三百文の切山椒は飯櫃の蓋《ふた》に盛り上げる程あつたさうである。

     その百九十二

 伊沢分家の口碑は、次に蘭軒に潔癖があつたと伝へてゐる。
 此|癖《へき》は既に引いた※[#「くさかんむり/姦」、7巻−374−下−1]斎《かんさい》詩集文政壬午の詩に就いて、其一端を窺ふことが出来る。「但於間事有遺恨。筅箒不能手掃園。」蘭軒は脚疾の猶軽微であつた時は、常に手に箒を把つて自ら園を掃《はら》つてゐた。僮僕をして掃はしむるに至つて、復《また》意の如くなること能はざ
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