多かつたのは、老人の読み易きやうにとの心しらひではなからうか。以上わたくしは第一茶山、第二信階、第三蘭軒の三人の事を註した。即ち発信者、受信者と書中の主人公とである。
第四「御奉行様」は曲淵景露《まがりぶちけいろ》である。「あまりにしたしくなし下され、同行のてまへすこしきのどくなるくらゐに御坐候よし。」景露がいかに蘭軒を優遇したかゞ想見せられる。且茶山がこれを報じて、父信階をして心を安んぜしめようとしたのは、筆を下す用意が周到であつたと謂ふべきである。
次に伊沢氏の人々にして茶山の問安を被つたものは、第五「御内上様」即信階の妻曾能五十七歳、第六「辞安様御内政様」即蘭軒の妻益二十四歳である。
次に茶山は第七第八、吾家の「妻姪」をして蘭軒に見《まみ》えしめたことを報じてゐる。蘭軒の長崎紀行には、「茶山堂上酒肴を具、その妻及男養助歓待恰も一親族の家のごとし」と書してある。わたくしは前に紀行を抄して、妻は門田《もんでん》氏、男《だん》養助は万年と註して置いた。万年は茶山の弟|汝※[#「木+便」、第4水準2−15−14]《じよへん》の子で、茶山の養嗣子である。それゆゑ蘭軒の男と書したのは戸籍上の身分、茶山の姪《てつ》と書したのは血統上の身分である。
最後に第九、蘭軒の世話で「可也にとりつづきゐ申候よし」と云ふ「千蔵」がある。即ち初めわたくしがその何人《なにひと》たるを知るに苦んだ頼竹里《らいちくり》である。竹里は蘭軒の江戸を発するとき、遠くこれを板橋に送つた。わたくしは富士川游さんの言《こと》を引いて、頼は或は伊沢氏に寄寓してゐたのではなからうかと云つた。しかし是は錯《あやま》つてゐた。「さだめて時々参上御せわに成可申候」と云つてある。
茶山が蘭軒を七日市《なぬかいち》に迎へ、神辺に伴ひ帰り、更に送つて尾道に至つたことは、長崎紀行の詳記する所である。茶山は丙寅六月十七日尾道油屋の夜宴の後、十八日には油屋で「すこし休息」した。その黄葉夕陽村舎《くわうえふせきやうそんしや》に帰つたのは「十八日夜也」と云つてある。蘭軒が「ぬた本郷駅、松下屋木曾右衛門の家に宿」した夜である。
茶山は常に神辺を「神のべ」と書してゐる。此書牘も亦同じである。刊本「筆のすさび」の如きは、ことさらに「かんのべ」と傍註してある。按ずるに文化文政頃の備後人は此《かく》の如く称へてゐたのであらう。
その百九十
わたくしは上《かみ》に伊沢分家の口碑の伝ふる所に係る蘭軒歿時の事二条を挙げた。此より蘭軒平生の事にして口碑に存ずるものに言及しようとおもふ。
蘭軒は近視であつたさうである。そして蘭軒が一目《ひとつめ》小僧に遭つたと云ふ伝説がこれに伴つてゐる。事は未だ蹇《あしなへ》にならぬ前にあるから、文化癸酉三十七歳より前でなくてはならない。
伝説に曰く。或日蘭軒は一病者を往診して、日が暮れてから還つた。雨の夜であつた。若党が提灯を手にして先に立つて行つた。蒟蒻閻魔《こんにやくえんま》の堂に近い某街《ぼうかい》を過ぐる時、※[#「竹かんむり/嫋のつくり」、7巻−371−上−5]笠《たけのかはがさ》を被つた童子《わらべ》が一人|背後《うしろ》から走つて来て、蘭軒と並んで歩いた。
「小父さん。こはくはないかい。」遽《にはか》に童子が問うた。
蘭軒は答へなかつた。
童子は問を反覆した。
若党が童子を顧みて、一声叫んで傘と提灯とを投げ出した。
「どうしたのだ」と蘭軒が問うた。
「今お側にゐた小僧は額の正中《まんなか》に大い目が一つしかありませんでした。ああ、気味が悪い。まだそこらにゐはしませんか。」若党の声は顫えてゐた。
「ばかな事を言ふな。一つ目小僧なんぞと云ふものがあるものか。お前が見損《みそこな》つたのだ。」
「いゝえ、河童が化けて出たのです。あの閻魔堂の前の川には河童がゐます。」
蘭軒は高笑《たかわらひ》をした。「化物話を聞いてゐるうちに、目が闇に慣れて来た。思の外暗くは無い。まあ、提灯が燃えないで好かつた。早く提灯と傘とを拾つて一しよに来い。」
若党は四辺《あたり》を見廻したが、見える限の処には人影が無かつた。童子もゐなかつた。
以上が伝説である。伝説には解説が附いてゐる。河童が一つ目小僧に化けて出て蘭軒に戯れたが、伊沢氏には近視の遺伝があつて、蘭軒は童子の面《おもて》を見ることを得なかつた。伊沢氏の近視は瞳孔の太《はなは》だ小いためだと云ふのである。
瞳孔の平均径は人毎に異つてゐる。しかし其広狭のために瞻視《せんし》を害することを聞かない。虹彩の瞻視を害することは、後天の変形には或は有るが、先天には恐くは有るまい。
近視が往々遺伝することは固よりである。しかし是は虹彩や脈絡膜の病では無い。伊沢氏に近視の遺伝があつたと云ふこと、蘭軒が
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