墓は、後に葬られた嗣子榛軒の墓と並んで立つてゐる。
伊沢分家の口碑は蘭軒歿時の話柄《わへい》二三を伝へてゐる。蘭軒の姉|正宗院《しやうそうゐん》は溜池より来て、弟の病牀に侍してゐた。尋《つい》で弟の絶息した後、来弔の客を引見した。蘭軒の門人某の父が来て痛惜の情を※[#「てへん+慮」、第4水準2−13−58]《の》べた。正宗院は云つた。
「わたくしも惜しい事だと存じてをります。わたくしが代つて死なれるものなら死にたいと存じましたが、どうも致し方がございませんでした。」
「さやうでございます。それはあなたが先生の代にお死なさつたら、大勢の諸生がどの位喜んだか知れません。」これが門人の父の答であつた。
正宗院は瞠目《だうもく》して言ふ所を知らなかつた。しかし客の去つた後、其淳樸を賞した。
その百八十八
蘭軒が此年文政十二年三月十七日に歿した時、今一つの話柄があつて、伊沢分家の口碑に遺つてゐる。それは歿後|幾《いくばく》もなく初夏の季に入つて、誰やらが「大声の耳に残るや初鰹」の句を作つたと云ふことである。
蘭軒は平生大声で談《はな》し、大声で笑つた。俗客の門《かど》に来るときは、諸生をして不在と道《い》はしめた。諸生が或は躊躇すると、蘭軒は奥より「留守だと道へ」と叫んだ。其声は往々客の耳にも入つたさうである。
嘗て自ら笑仙《せうせん》と号したのも、交遊間に「蘭軒の高笑《たかわらひ》」の語が行はれてゐたからである。
菅茶山は毎《つね》に「大声高笑《おほごゑたかわらひ》」の語を以て蘭軒に戯れた。此に茶山の書牘一通があつて、文中に此語が見えてゐる。書牘は文化丙寅六月十九日に茶山が蘭軒の父|信階《のぶしな》に与へたもので、文淵堂の花天月地《くわてんげつち》中に収められてゐる。
丙寅は蘭軒の長崎に往つた年である。茶山はこれを七日市《なぬかいち》へ迎へ、神辺に伴ひ帰つて饗応し、又尾道まで見送つた。書牘は此会見の状況を江戸にある蘭軒の父に報じたものである。わたくしは前《さき》に蘭軒の長崎行を叙した時、未だ花天月地を見なかつたので、此文を引くことが出来なかつた。文は下《しも》の如くである。
「時下大暑の候御坐候。弥御揃御安祥被成御坐候覧、奉恭賀候。」
「扨めづらしく辞安様御西遊、おもひかけなくゆる/\御めにかかり、大によろこび申候。大坂より御状下され、此たびのこと御申しこしなされ、おどろき申候。御とまりは七日市と申所、わたくし家神のべと申より東三里ばかり也。さつそく参候而《まゐりそろて》、一夕御はなしども承候、第一ことのほか御すくやかなる御様子、大ごゑたかわらひもへいぜいのとほり、すこしもたびの御つかれなく、めづらしき山川ここかしこ御なぐさみおほく候よし。御奉行様御おぼえもめでたく、あまりにしたしくなし下され、同行《どうぎやう》のてまへすこしきのどくなるくらゐに御坐候よし。さて六月十七日あさ、わたくし方へ御いでなされ候。御たびかけのこと、しな/″\御みやげ等下され、いたみ入かたじけなく奉存候。妻《さい》姪《てつ》どももまかり出、御めにかかり候。九つ時分御立なされ、御いとまごひ申候へども、とかく御名ごりをしく、尾道と申まで、西南六里、御あとより追かけ候|而《て》、また一夜御はなし申候。御しよくじなどもよくなされ候。これは少々御ひかへなされと申候ほどのことに候。」
「右御様子申上度、且又御状一通御届申候ため、一筆啓上仕候。暑甚御坐候。御保護専一奉祈候。恐惶謹言。六月十九日、菅太中。伊沢長安様。」
「十七日一夜をのみちにて御はなし承、早朝御立にて御坐候。わたくしは其日すこし休息いたし帰宅仕候。十八日夜也。」
「尚々|御次《おんついで》御内上《おんうちうへ》様、辞安様|御内政《ごないせい》様へ宜奉願上候。」
「尚々千蔵こと辞安様大に御せわ被下、可也にとりつづきゐ申候よし、忝奉存候。さだめて時々参上、御せわになり可申候。宜奉願上候。」
此書牘は茶山が蘭軒の旅況を蘭軒の父信階に報じたもので、此主なる三人を除く外、尚六個の人物が文中に見えてゐる。話題に上つてゐるものは通計九人である。わたくしは下《しも》に少しくこれを註して置かうとおもふ。
その百八十九
わたくしは蘭軒の大声高笑の事を言つて、菅茶山の書牘を引いた。蘭軒は文化丙寅に長崎に往く途次、神辺《かんなべ》を過《よぎ》つた。茶山がこれを江戸にある蘭軒の父|信階《のぶしな》に報じた書は即是である。書を裁した茶山は五十九歳、書を得た信階は六十三歳、文中に見えてゐる蘭軒は平頭《へいとう》三十であつた。わたくしは是に由つて「伊沢長安様」と呼ばれた信階が、倅蘭軒ほど茶山に親しくはないまでも、折々は書信の往復をもしたと云ふことを知る。茶山の仮名文字を用ゐること常よりも稍《やゝ》
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