十一月十日に蘭軒の幼女|万知《まち》が歿した。母は側室佐藤氏である。先霊名録に覚心禅童女の法諡《はふし》が載せてある。恐くは生後|幾《いくばく》ならずして夭したのであらう。
按ずるに蘭軒の女《ぢよ》は文化乙丑に長女|天津《てつ》が夭し、壬申に二女智貌童女が夭し、文政癸未に四女順が夭し、今又五女万知が夭した。その僅に存するものは文化甲戊生の三女|長《ちやう》一人である。
蘭軒は平素身辺に大小種々の篋《はこ》を置いた。恐くは小什具《せうじふぐ》を貯へ、又書紙を蔵《をさ》むる用に供したのであらう。起居不自由なる蘭軒が篋※[#「竹かんむり/匪」、第4水準2−83−65]《けふひ》の便を藉ることの多かつたのは、固より異《あやし》むに足らない。世の口さがなきものは、その数《しば/\》女児を喪ふを見て、一の狂句を作つた。「箱好が過ぎて娘を箱に入れ。」
十二月四日に榛軒の長女れんが夭した。法諡幻光禅童女である。
此年戊子の除日は蘭軒がためには最終の除日であつた。「歳晩偶作。臘節都城閙。間窓足欠伸。堅晴梅蕋馥。奇暖鳥声春。老応居人後。楽何関屋貧。近来頻哭友。徒寿笑吾身。」蘭軒は二年前に棕軒侯を哭し、前年に茶山を哭した。落莫の感なきことを得なかつたであらう。「近来頻哭友。徒寿笑吾身。」
集中此年の詩は大半柏軒の浄書する所である。六月後には蘭軒は一首をだに自書してゐない。
此年市野氏では迷庵の子光寿が四十一歳になつてゐた。狩谷氏では隠居※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が五十四歳、戸主|懐之《くわいし》が二十五歳であつた。多紀氏では矢の倉の※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》が三十四歳、向柳原《むかうやなぎはら》の宗家は前年|柳※[#「さんずい+片」、第3水準1−86−57]《りうはん》が歿して、暁湖《げうこ》の世になつてゐた。蘭軒の門人中渋江抽斎は二十四、森枳園は二十二であつた。
頼氏では山陽が此春水西荘に山紫水明処を造つた。「却向東南贅一室。要将三面看梅花。」
是年蘭軒五十二、妻益四十六、榛軒二十五、常三郎二十四、柏軒十九、長十五であつた。榛軒の妻|勇《ゆう》は年紀不詳である。
その百八十七
文政十二年は蘭軒終焉の年である。「己丑元旦」の詩は榛軒《しんけん》が浄書してゐる。「三冬無雪梅花早。一夜生春人意寛。卜得酔郷今歳富。尊余臘酒緑漫々。」語に毫も衰残の気象を認めない。蘭軒は、脚疾を除く外、年初に猶身体の康寧《かうねい》を保つてゐたかとおもはれる。
二月二日に蘭軒の次男常三郎が歿した。幼《いとけな》くして明《めい》を失し、心身共に虚弱であつたさうである。常三郎は父に先《さきだ》つこと四十五日にして歿したのである。文化乙丑に生れて、二十五歳になつてゐた。
五日に蘭軒の妻|益《ます》が歿した。其|病《やまひ》を知らない。曾て除夜に琴を奏して慰めたと云ふ盲児《まうじ》常三郎に遅るること僅に三日、夫に先つこと四十二日にして歿したのである。益は天明三年に飯田休庵の女《ぢよ》として生れ、年を享くること四十七歳であつた。法諡《はふし》を和楽院潤壌貞温《わらくゐんじゆんじやうていをん》大姉と云ふ。
十五日に蘭軒は友を会して詩を賦した。推するに未だ致死の病に襲はれてゐなかつたやうである。集に存ずる所の三絶句の一は、亡妻を悼《いた》んで作つたものらしい。「二月十五日夜呼韻。風恬淡靄籠春園。遠巷誰家笑語喧。零尽梅花枝上月。把杯漫欲復芳魂。」
三月十七日に蘭軒は歿した。足疾は少壮の時よりあつて、蹇《あしなへ》となつてからも既に十七年を経てゐる。しかし此人の性命を奪つたのは何の病であらうか。口碑の伝ふる所のものもなく、記載の徴すべきものもない。三十二日前に夜友を会して詩を賦したことを思へば、死の転帰を見るべき病は、当時猶未だ其徴候を呈せなかつたであらう。推するに蘭軒の病は急劇の証であつたと見える。以上書き畢《をは》つた後、徳《めぐむ》さんの言《こと》を聞けば、蘭軒夫妻と常三郎とは同一の熱病に罹つたらしく、柏軒も亦これに侵されて頭髪が皆脱したさうである。此に由つて観れば、此病を免れたものは榛軒夫婦のみであつた。
蘭軒は安永六年十一月十一日に生れたから、年を享くること五十三である。法諡を芳桜軒自安信恬《はうあうけんじあんしんてん》居士と云ふ。
蘭軒の墓は麻布の長谷寺《ちやうこくじ》にある。笄坂上《かうがいざかうへ》を巡査派出所の傍《かたはら》より東に入つて、左折して衝き当れば、寺門がある。門内の右方《いうはう》には橋本|箕山《きざん》の碑がある。東京の最大碑の一である。本堂前より左すれば、高く土を封じた松平正直の墓がある。其前の小径の一辺に、蘭軒夫妻の
前へ
次へ
全284ページ中149ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング