復疑。秋前猶有寄兄詞。」田能村竹田《たのむらちくでん》が杏坪《きやうへい》の老いて益|壮《さかん》なる状を記したのは此年である。「先生今年年七十二、神明不衰、声容ますます壮なり。藝藩にて四郡の郡奉行となり、所管凡八万石許なり。其旁に藝州志の纂述を命ぜられ、毎暁寅の時に盥漱して端坐し、辰時迄に其日の公私の事務を計画し、其後に飯して、夫より終日出勤し、役務を取さばき、少しも倦事なし。且其ひまにも詩を作り歌を咏じ、亦一日十数首に下らずと云ふ。」
此年三月に亀田鵬斎が七十五歳にして歿し、八月に市野迷庵が六十二歳にして歿した。二人皆中風である。
蘭軒一家の此年の齢は主人五十、妻益四十四、榛軒二十三、常三郎二十二、柏軒十七、長十三であつた。
その百七十五
文政十年の元旦には、※[#「くさかんむり/姦」、7巻−343−下−1]斎詩集に七絶一首がある。「丁亥元日、客歳冬暖、園中梅柳、頗有春色、故詩中及之。梅已含香柳帯烟。杪冬猶是属蕭然。春風先自融人意。方道今朝草樹妍。」江戸は冬以来|暖《あたゝか》であつたと見える。菅茶山は備後にあつて、此歳首に多く自己の身上に就いて語を著けてゐる。「馬歯今朝八十盈、回首志業一無成」と云ひ、又「臥痾恨欠拝新正、無奈衰躬負我情」と云つてゐる。皆人をして其衰況を想はしむる語である。
九日の草堂集には蘭軒が七律一首を得た。題の下に「示社中諸子及二児」と註してある。
後に引くべき生日後の尺牘断片に、茶山はかう云つてゐる。「正月十一日(阿部侯|正寧《まさやす》の館《たち》に)罷出候。御手のし頂戴は相すみ、又御目通に出よとのこと、さむさはさむし、腹はつかへる、御断申帰候。」亦「無奈衰躬負我情」の句の註脚とすべきものである。
二十五日に茶山は蘭軒に書を寄せた。書は文淵堂の花天月地《くわてんげつち》中にある。本文は代筆で、首尾両端と行間とに自筆の書入がある。本文。「新年の御慶重畳申収候。尊家愈御安祥御迎被成候覧奉恭賀候。私無事越年仕候乍憚御安意可被成下候。右年甫御祝辞申上度如此に御座候。恐惶謹言。正月廿五日。菅太仲晋帥。伊沢辞安様侍史。」此中「晋帥」の二字だけが茶山の自署である。此より自筆の書入を写し出すことゝする。「尚々私も追々と老耄、手もすこし宛《づゝ》かなはぬやうになり候故、本文代筆に候。真平御免可被下候。吾兄も年よればかくなり候を思召、とかく御|保重《ほぢゆう》専一に候。必々耳をとめて御きき可被下候。令郎がた次第に御成立推量仕候。凡《すべて》令内様令郎二位へ宜奉願上候。直卿《ちよくけい》はなしにて聞けば、詩会連月打つづき、風流御境界之由羨敷奉存候。六右衛門古庵様折ふし見え候半《さふらはむ》と推察仕候。御次《おんついで》に宜奉願上候。市川はいかが、折ふし参られ候哉、近比杳然に候。宜奉願上候。年内つくり候一首、歳首二章|汚電候《をでんしそろ》。御一笑可被下候。これは直卿参り候はば御見せ可被下候。見せよと申参候。石田町の内へ移居のよし、隠者もさびしきものと見え候。書状御届奉願上候。玄間兄弟へ宜奉願上候。一々書状遣候ても、多用の人を攪撩《かくれう》いたし候半と存さしひかへ申候。いはぬはいふにいやまさると申こと御つたへ可被下候。服部兄いかが、今は劇職のよし、たび/\見え申まじく候。参られ候はば宜奉願上候。かへす/″\も令郎様へ宜御申可被下候。月事《げつじ》の姫へも。」
紙上自筆の文字を見るに、茶山は未だ必ずしも尺牘を作るに人を倩《やと》はなくてはならぬ程衰へてはゐなかつた。只新年を賀する書を作らうとおもひ立つアンピユルシイウな力に乏しかつたものと見える。さて人に書かせて見れば、それに満足することは出来なかつた。茶山は本文に数倍する細註を加へた。
此書に添へた前年丙戌の詩はいづれの詩なることを知らない。歳首の二篇は集に「元日二首、丁亥」と題する作で、上《かみ》にわたくしの句を摘んだものと同じである。
その百七十六
菅茶山の丁亥歳首の書には、蘭軒の家族四人を除く外八人の名が見えてゐる。茶山は蘭軒の妻益、其子榛軒柏軒を筆に上《のぼ》せて、単に「宜奉顧上候」と云ふに過ぎぬが、其中榛柏二子の名をば三たびまで書して慇懃を極めてゐる。且其成長の状を想ふとも云つてゐる。最奇とすべきは書中に所謂「月事の姫」である。按ずるに是は蘭軒の女《ぢよ》長《ちやう》を斥《さ》して言つたものである。父蘭軒は前に書を茶山に寄せた時、何かの次《ついで》に長が身上に説き及んで、天癸《てんき》の新に至つたことを告げたのであらう。長は是年十四であつた。
他の八人中先出でてゐるものは第一、牧黙庵《まきもくあん》の「直卿」である。黙庵は当時江戸にゐた。そして書を茶山に寄せて丙戌以後蘭軒が頻に詩会を催して少年子弟を誘掖することを
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