覚書の載《の》する所にして、此に至るまでわたくしの全く取らずに置いたのは、門人に関する事である。所謂内弟子の出入《でいり》は皆藩主の認可を経たものである。覚書には凡七人の名が見えてゐる。曰|安西了益《あんざいれうえき》。父を外記《げき》と云ふ。豊前の人である。曰中野|貞純《ていじゆん》。父養庵は井上筑後守|正滝《まさたき》の医官である。井上は下総国高岡の城主である。門人録に純を「順」に作つてあるが、蘭軒は純と書してゐる。曰河村|元監《げんかん》。父を意作《いさく》と云ふ。門人録に「藩」と註してあるから、阿部家の臣であらう。曰酒井|安清《あんせい》。小川吉右衛門の甥である。小川は常陸国府中の城主松平播磨守|頼説《よりのぶ》の臣である。曰小林玄端。出羽山形の人である。門人録に「後塩田楊庵、対州」と註してある。又端が「瑞」に作つてある。塩田氏の云ふを聞くに、父が玄端、子が玄瑞ださうである。然らば蘭軒の誤記であらう。曰多々良|敬徳《けいとく》。父を玄達と云ふ。四谷の住人である。門人録に「後文達、江戸」と註してある。字《あざな》を辨夫《べんふ》と云つたのが此人であらう。曰天野|道周《だうしう》。遠江国横須賀の城主西尾隠岐守|忠善《たゞよし》の臣である。
 夏に入つて四月十三日の詩会が入谷村旭升亭に催された。宿題は「山中首夏」で、蘭軒は五絶五首を作つた。席上の詩は「夏日田園雑興」の七絶二首であつた。
 此月蘭軒は「呉刻中蔵経跋」を作つた。清舶《しんぱく》載せ来る所の中蔵経に、周錫※[#「王+贊」、第3水準1−88−37]本《しうせきさんぼん》と孫星衍本《そんせいえんぼん》との二種がある。並に元人抄本に拠るもので僅に一巻を成してゐる。然るに宋代には別に扁鵲《へんじやく》中蔵経と云ふものがあつて、後人がこれを上《かみ》に云ふ所の中蔵経に併せ、分《わかつ》て八巻となした。呉勉学《ごべんがく》の刻する所の中蔵経が即是である。その宋時の古文を包容してゐることは、丁香散《ちやうかうさん》を載するを以て知られる。丁香散は朱肱《しゆこう》が活人書《くわつじんしよ》に、扁鵲中蔵経を引いて載せ、周孫等はこれを載せない。蘭軒が呉氏の八巻本に取ることある所以である。

     その百七十四

 蘭軒は此年丙戌の五月十三日に重て入谷村の旭升亭に会した。宿題は「夏菊」で、※[#「くさかんむり/姦」、7巻−341−下−9]斎詩集には七絶一首が載せてある。
 秋には集中僅に五律一首があるのみである。「九月二日集長泉寺」の作が是である。
 九月に蘭軒は「活人指掌方跋」を作つた。按ずるに活人指掌方《くわつじんししやうはう》とは熊宗立《ゆうそうりつ》の「活人書括指掌図論」である。此書は宋の李知先《りちせん》の「歌括証論」と元の呉恕《ごじよ》の「指掌図式」とを合併したもので、其著者を熊宗立と曰ふ。蘭軒は熊の為す所を喜ばなかつた。「李為宋乾道中人、呉為元至元中人、熊氏妄混体裁、恣換書名、遂使後学不能見其原、復何無忌憚」と云つてゐる。此書に別に「大乗居士校本」と云ふものがある。蘭軒はこれを悪《にく》むこと最甚だしく、此跋の末にかう云つてゐる。「世又有一種大乗居士校本。据熊氏本。間加以陶節菴論説。去旧弥遠。而乱糅極矣。不存而可。」
 冬の詩は集に二首ある。其一は蘭軒の祖父信政の妻《さい》の里方、菓子商大久保|主水《もんど》が寿筵の詩である。「大久保五岳忠宜。今歳華甲。仲冬七日。開宴会客。諸彦祝以亀寿鶴齢之章。其詞金玉満堂。如余瓦礫之言。固不可混其間。然不能無言。聊賦一絶。述翁有松柏後彫之質云。」此詩引は諷刺の意が寓してあるのではないかと疑ふ。詩は略する。其二は「篠池千賀亭宿題」の詩で、「冬日朝起」を題として居る。千賀亭集は其日を詳《つまびらか》にしない。
 此年阿部家に代替《だいがはり》があつた。棕軒正精《そうけんまさきよ》は六月二十日に卒して、子|正寧《まさやす》が家を継いだ。菅茶山の「除日」の詩に、「頑仙堪恥亦堪喜、及見今公行部時」と云つてある。是より先茶山は十二月二十二日に正寧に謁して物を賜はつた。次年に蘭軒に与へた書に、「君公御入国に而《て》一度めされ候時病気に而御断申上候、其のち又めされ御居間にて御酒頂戴、かへりには御盃、筆墨箋、たばこ入をいただき候、十二月廿二日也」と云つてある。詩集にも亦一絶が見えてゐる。「十二月廿二日始謁公、賜酒食及菓子諸文具等。熊車行部市朝歓。政見江山瑞気攅。敢謂荒村樵父伴。近攀綺席侍杯盤。」
 茶山の再び妻を喪《うしな》つたのも亦此年である。行状に「配内海氏早亡、継室門田氏有内助之方、先歿、年七十、無子」と云つてある。集に悼亡の詩三首があつて、中に「久托衰躬只一妻、奈何老鶴乍孤棲」の句がある。
 頼氏では山陽の妹十が此年に歿した。「忽得凶音読
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